その香は濡烏の帳の中に



 一本の線が空中へと昇る。
 真っ直ぐに上に伸び、一定の高さまで上がるとくにゃりと揺らいで虚空へ溶けていく。止まることのない白い煙の様を、見るとはなしに眺めていた。
「めずらしいことしてるのね」
 後ろから声がする。妻だ。
「ん……あぁ」
「部屋の外まで匂いが漏れてる」
 その声に特に感情は乗っていないが、文句でも言いに来たのだろうか。なかなかいい香を焚いているのだ。そこまで不快にはしていないと思うが。それにこれは仕方のないことなのだ。
「今日な、郭嘉殿に中年男の匂いがすると言われてな」
 年なんだからそりゃそういう匂いもするでしょうよ、とその場では返したがその言葉に俺は少し傷ついた。面と向かって臭い、と言われているようなものだ。不衛生にしてるつもりはなかったし、身なりには気を使っているつもりだった。なによりしょっちゅう酒の匂いを漂わせている男に言われたのがより癪だった。あんたも年をとれば同じ匂いを漂わせるというのに。
 風呂には入っている。衣服も清潔にしている。となれば後は香を焚き込めるぐらいしか手はない。
 苦い気持ちで立ち上る煙の先を眺めていると耳の後ろに生暖かい感触が走る。気持ち悪さに肩をすくめて振り返ると、すぐ後ろに唇をゆがめて笑う妻の顔があった。
「何一つ間違ってない意見ね」
 耳に残る感触をかき消そうと耳をこすっていると、妻が俺の隣に腰をおろした。
 わざわざ耳元に鼻を寄せて確かめたのか。確かめたくせに、嘘でも否定をしてくれるような優しさはこの妻には当然ない。というか、そう思われていたのか。
 さらに傷ついた俺のことなどお構いなしに、笑いながら煙に息を吹きかけてその揺らぎを楽しんでいる姿をじっと横目で睨む。
「……宮仕えは身だしなみにも気を付けないといけないものでね」
「げにすまじきは、って?私は嫌いじゃないけど」
「何がだ?」
 俺の問いに、妻の顔がしまったとでも言うように固まる。何かを言いかける様に口を開いた後、ためらうように唇を結ぶ。一拍息を置いて、大きく吐き出すと不服そうに口を開いた。
「……嫌いじゃない、というより嗅ぎ慣れてしまっただけかもね」
 こういう時に下手に誤魔化さず、かといって正直に全て言うわけでもない。そんな彼女らしい捻くれた素直さがふっと俺の傷ついた心を和ます。
「ほう?気が合うな。俺も好きだ」
「中年男の匂いが?」
「あんたの匂いさ」
「どうせ文和が思ってる私の匂いなんて、髪につけた香油の香りでしょ」
 結い上げた髪から垂れさがった毛先を自分の指に巻きつけ、俺の顔の前に持ってくる。指を開けば、巻きつけた髪が柔らかくほどける。彼女の言うように香油の香りなのだろう。ほどけた髪と同じように、嗅ぎなれたいつもの匂いがそこに広がり、鼻に届く。
「間違っちゃいないがこれじゃない。もっと深く濃い匂いだ」
 眉を寄せる妻の頭上に手を伸ばす。髪をまとめる簪を抜き取ると、その長い髪がするすると零れ落ち、妻の身体を覆う。香油の香りがさらに広がる。柔らかいそのひと房を持ち上げ、艶やかな黒に唇を這わせた。
「あんたが俺の上に乗るときにな。この髪が俺を包むだろう。その時の匂いがな、一番好きなんだ」

「というわけで、今夜どうかな?」
「……文和から中年男の匂いがなくなったらね」
「じゃあこの服は今夜のために使おうかね」
「馬鹿じゃないの。明日着るものがなくなるじゃない」
「じゃああんたの香りでかき消してくれ」
「謹んでお断りします」