nt-Script-Type" content="text/javascript"> 蝉を食むにはまだ早い

蝉を食むにはまだ早い



 蝉がジリジリと鳴いている。
 昼過ぎの一番暑い時刻、手に盆を持ちながら廊下を歩く。日陰になってるとはいえ、首元に汗がひとつふたつと垂れてくるのを手で拭う。忌々しくもギラギラと照りつけるそれを見上げた。誰しもに平等に降り注ぐそれを恨んだところで何にもならんことは分かってはいるが、こうも容赦なく炙られては睨みつけたくもなるだろう。俺でさえこうだ。暑さに弱いあいつはどうしているのやら。
 角を曲がり、目当ての部屋に着くと、扉の前で暇を持て余していた下女の少女が慌てて立ち上がる。
「中にいるな?」
「いらっしゃいますが――」
 扉に手をかけ中に入ろうとすると、下女が焦ったように止めに入ってくる。中の"御主人"に言われているのだろう。盆の中から冷えたひとつを取り出して彼女に渡し、人差し指を口に当てる。所謂口止め料、というやつだ。ま、どうせ中の”御主人”にはバレるのだから、ここを通してくれるならそれで問題ない。というか、この家の主人は俺なんだがな。引き下がる下女に満足すると、そのまま部屋に入った。

 一歩踏み入れると、ちゃぷんと水音が部屋に響いた。天井には部屋の主の元から反射した光が揺蕩っている。
「また一段とあられもないお姿で」
「だから、人払いしてたんですけど」
 前にもこんなやり取りをしたな、と思いながら傍による。背を向けたまま振り返りもしない。これも一緒だ。足音が近づいても制止もしない。これは前と違う点か。
 その隣に胡座をかいて座り込むと膝に肘をついて、妻の横顔を見つめる。
「とはいえ、さすがに大胆すぎると思うがね」
 妻は部屋の中に盥を置いて、その中から顔と手足だけを出して行水していた。薄布とはいえ下着を身に纏っていたのは、まだいい方なのか。
「暑いの苦手なの、知ってるでしょ」
 天井の光の波を見つめながら、悪びれもしない。外から差し込む光がその腹を照らす。水面の輝きに照らされる肌が白く眩しい。くびれた胴体と柔らかそうな腹部。そこから伸びる脚は水滴を纏い、瑞々しい果実のようだった。自分がどういう姿か、分かってやっているんだろうな。こいつは。そういう女だ。
 ちゃぷ……ちゃぷ……静かに波打つ水音が部屋に響いている。
「で、何の用なんです?用事もなく来るほど暇じゃないでしょ」
 相変わらずこちらを見ることもなく、天井を見上げ続けている。髪を上の方でひとつにまとめているが、そこに漏れた毛や前髪が肌に張り付いて婀娜っぽい。どこまで計算しているのかは分からん。が、俺が手を出してはこないことまでは分かっているのだろう。その余裕が憎らしい。
「用事はこれだ」
 盆の中から先程下女に与えたように、またひとつ、取り出す。彼女にもよく見えるようにその顔の前に差し出すと、その鮮やかな色を見て、彼女は顔を綻ばせた。
「これは火急の用事ね」
 垂れてくる汁を舌で受け取ると、そのまま舐めとるようにひと口かじりつく。しゃくり、と心地よい音がすると口の端からは赤い汁がこぼれ落ち、彼女の喉元に溶けて消えた。俺の手から西瓜を受け取りながら上体を起こし、盥の中で彼女も胡座をかいて座る。

 部屋の外では蝉がうるさく鳴いている。その騒がしい声の方を見れば、樹木の影とどこまでも深い青が見える。部屋の中は反対に濃く暗く、窓の外とそこから差す光を閉じ込めているようだと思った。
「文和も脚入れたら?」
 手では次のひとつを要求しながら、少し体を寄せ脚を入れる場所を空けてくれる。
「ありがたいお言葉には、素直に甘えておくかね」
 求められるままにひとつ手渡し、部屋の中から低めの牀を持ってくる。そこに腰掛けながら脚衣の裾を捲りあげ、水中に脚を下ろす。ちゃぽん、と音が響き、指と指の間に水が流れる。
「……思ったよりぬるいな」
「文句なら、自分で水を足せば?」
 小気味よい音を立てながら西瓜にかじりつく妻を見れば、濡れた布がその肌に張りつきさらに俺を煽り立てるようで、思わずため息をつく。
「あんたな、わざとにしろそうでないにしろ、もう少し慎みを持ったらどうだ」
「妻の部屋に、声かけることなく入ってくる人に言われたくないですね」
「それにしてもな……子供じゃないんだぞ」
「あなただって私の親じゃないでしょ」
 ああ言えばこういう。この減らず口はいつまでも変わらんな。妻の視線は窓の外を向いている。そういえばまだ一度もこちらを見ていない。はなから俺と争う気もない、か。
「ま、こうでもしてなきゃ、俺がくたばる前にあんたがこの暑さで溶けて無くなっちまうか」
 しゃくり。と音が部屋に響く。彼女の口から垂れた赤い汁がぽつりとひとつ落ちて、溶けた。
「あなたのその煩い口に、外でもっと喚いて五月蝿いやつを入れるまでは、溶けるつもりはないよ」
 ぷっと種を窓の外に飛ばすと、木に止まっていた蝉が飛んで行った。

「蝉、か」
 少しだけ静かになった青い外の世界を眺めながら、思い出したことを聞かせるでもなく零す。
「蝉っていうのは再生の象徴だ」
「……へぇ」
「蛹になって羽化して飛び立つのが、死んだ人間の魂が仙として登るように見えるからなんだと」
 ちゃぷ……と音がした方に視線を動かせば、妻が膝を抱えながら、頬杖をつきこちらを見ている。黒い絹糸が、影のように水面に広がる。部屋の暗さと相まってまるで夜の月のように妻の目が細く弧を描く。その視線が早く続きを話せと促している。
「……それにあやかって、蝉を模した玉を死者の口にふくめて埋葬する、なんて習慣もある」
「そう」
「あんた、それを知ってたのか?」
「さあ、どうかな」
 指で盥の水を弄び、掬っては戻す。水音が辺りに響き、光の欠片が部屋に散らばる。
「でも……飛び立っちゃったから、暫くはあなたの口に入れられそうにないね」
 遠くでまた、生命を燃やすように激しく鳴く声がした。