甘い桃は丁寧に食べるものと相場が決まってる
星がきれいだな、と思った。
そろそろ眠る時間だけど、そんな星を見ていたらなんだか今日をこのまま終わらせるのは惜しい気がしてきた。ふらりと部屋を抜け出して廊下に出る。下女たちは皆下がらせたし、もう寝ているのだろう。静かな廊下に自分の足音だけがこつこつと響く。
厨に入ればそこに果物が置かれていることは知っていた。籠の上にはビワと桃。どちらにしようか少し悩んで桃を手に取る。甕から少し水をくみ出し、桃を優しく洗う。本当は井戸で少し冷やしたいところだけど、ぬるくて濃い甘さに浸るのもいいと思う。
そんなことを考えていると、急に後ろから声がした。
「ほぅ、桃か。いいね。俺にも一つ貰えるかな」
足音もさせず、無駄に気配を消して、その声はいつものように軽くふざけている。
「まったく都合のいい時に現れる人だこと」
振り返りもしない。どうせにやにやと楽しそうに笑っているんだろう。見なくたってわかる。籠からもう一つ桃を取り出し、同じように水で洗って産毛をとる。傷をつけないように優しくこするたびに、桃の甘い香りがふわりと鼻に届く。軽く水気を切ったらまな板にのせて机に置く。包丁と盛り付け用の皿、それに布巾を濡らして同じように机に並べた。その前に椅子を置いて座ると、それまで立って見てるだけだった文和が、見計らったように椅子を持ってきて私の左に置いた。
「刃物使うんだから離れてて欲しいんだけど」
真横に座られてたらやりにくいし危ない。念のためにね、と付け加えたら、わかったわかったと素直に少し椅子をずらして座りなおしてくれた。
桃の割れ目に刃を当てる。ゆっくりと差し込み中の種に当たるとそれに沿ってぐるりと一周させる。身を崩さないように軽く実をねじれば二つに割れ、手のひらの中から甘い香りが広がる。
ただおなかを満たすだけだったらビワのほうが手軽だし、味の好みでも実はそっちのほうが上だ。でも、この甘い香りを胸一杯に吸い込みながら、食べるためのひと手間をかけるこの時間のほうがこの持て余した夜の時間に合っていると思った。
二つに割れた桃の中から包丁のあごを使って種を抜き出す。ひとつ、ふたつ。ふと視線を横にずらせば、そんな手元を、楽しそうに見つめている視線があった。机に肘を置いて頬杖をつき、含み笑いを浮かべて。桃を切っているだけの何がそんなにいいんだか。相変わらずわからない人だな、と思いながら半分の桃をさらに切り分けていく。さらに半分では少し大きい。もう少し小さく、食べやすいように。切り分けたらお尻のほうから包丁で実を押さえて、ゆっくりと皮を剥いていく。一人分増えたせいで剥く量が多くなったけど、こういう細かい作業は嫌いじゃない。よく熟れた実を崩さないように、ひとつずつ、丁寧に。皮の剥けた桃から盛り付け用の皿にのせる。
すべて切り終わったら、その皿を文和に向けて手の甲で押し出す。
「どうぞ、先に食べたいだけ食べていいよ」
指に残った果汁を舐めながら伝えても、動く気配はない。
「欲しいと言ったのに食べないの?」
一つ増えた分手間も増えたのに、とむっと思いながら文和を見る。その目が桃ではない、もっと上を見ていることに気づいた。
その視線で、ああ、"そういうこと"をお望みなのね、となんとなく察した。ひと手間増やされた分、ここで返してもらおうかな。
大き目のものをひとつ選び、指で摘まむ。そしてそのまま文和の口元へと運ぶ。
「さすが、わかってるじゃないか」
満足げに笑うと、じゅるり、と柔らかい音を一口かじる。口の端から桃の汁が溢れた。赤い舌がそれをゆっくりと見せつけるようにすくいとる。
「甘いな」
「よく熟れてたからね」
差し出した手にはまだ桃が残っている。さらに口元に運んでやる。もう一口かじり、私の手にも果汁が垂れる。指に、手のひらに、そして腕に。べたべたとした感触と、甘く誘う香りが夜に混じる。
指に残る最後の一口を指ごと口へと運ぶ。じわり、と熱が指先を包み込む。柔らかく厚みをもった彼の舌が指先を撫で、私の指をさらに奥へと運び込む。絡みつき、撫でまわし、そこについた甘みをすべて味わうかの様にゆっくりと私の指が文和に食べられている。爪の先から指と指の間まで、すべて。指を好きなように食べられながら、文和の口元に残っていた汁をなぞる。そのまま薄い唇に撫でつける。もっと、もっとこの甘さを感じたらいい。
舐められている指で舌を押し、動きを止めさせる。少し不満そうな顔をしたけど、私だって桃を向いた分ぐらいは楽しみたい。指を歯の裏に押し当てる。口元が少し緩み、その奥の暗闇が見える。その隙間は夜の空よりも暗くて、きっとこの二人しか知らない場所だ。もっと、あなたのことを知らないと。奥歯から順々に歯を撫でてひとつずつその形を確認する。そのひとつひとつを忘れないように、ゆっくりと丁寧に。そう味わっていると、軽く指を噛まれた。文和が眉間に皺を寄せている。思っていたのと違う、と不満を抱いているのか……それとも単純に不快なのか。そのどちらでもいいと思った。
私がそんなあなたの望み通りに動くような"お優しい"人間じゃないって知ってるでしょ?
前歯の裏まで撫でたら、ゆっくりと指を抜き出す。そして代わりに親指をそこに差し入れた。親指が口の中で軽く歯を立てられる。甘く甘く歯を立てられるのはくすぐったくて気持ちいい。残りの指を文和の頬に沿わせてると手首を掴まれた。
「まったく、この指は行儀が悪いったらありゃしない。おとなしくできんもんかね」
忌々しげにべたついた頬を手で拭いながら、あきれた目をこちらに向けてくる。
「私がおとしくなんてすると思う?」
「するさ。この後、な」
椅子から立ち上がると、掴んでいた手首を引っ張った。せっかく剥いたんだから、と桃の皿を持ち上げる。今度は素直にその腕に従ってあげよう。
今夜は終わらせるのが惜しい、とは思ってたけど……どうやら思ったより長い夜になりそう。