苦い思いも今では甘い
「右と左、どっちがいいです?」
珍しく俺の部屋に来た妻が、左右の手に細長い箱を持ち俺に尋ねてくる。どちらも同じぐらいの大きさで、敢えて違いをあげるなら、新品かそうでないかぐらいだろうか。
二つともを渡すのではなくどちらかということは何かあるんだろうが。
「んー、こっちかな」
なんとなく古い方の箱を選ぶ。するとなるほどね、笑みを浮かべてそちらを渡してきた。受け取って蓋を開ければ中には使用した形跡のある筆が入っていた。物はいいもののようだが、しばらく使われたような形跡はない。しかし丁寧に洗われていて使用に問題はなさそうだ。
「贈り物に使い古したものなんで変わってるな」
「贈り物なんて一言も言ってませんけど?」
「じゃあそっちの箱はなんだ?」
もう片方の箱の蓋を妻が開けると、中には新品の筆が入っている。こちらも物はよさそうだ。
「こっち、だったら贈り物でしたね」
「じゃあ、こっちはなんだっていうんだ」
「敢えて言うなら……返却、でしょうか」
返却。言われてもう一度筆を見る。見覚えがあるような、ないような。
特に反応のない俺をつまらなく思ったのか、もう一つの箱もすっと差し出してきた。
「覚えてなくても別にいいんですけど。こっちも渡しておきますね」
「結局どっちも渡すんじゃないか」
「筆、そろそろ替え時だったでしょう?」
そう言うとさっさと踵を返して去っていく。二つの箱を受け取り、なんだったんだとその背中を見送る。
返却ねぇ。という事は前に俺が使っていたのか?もう一度よく見るがやはり何も思い出せない。そもそもあいつに筆を貸したことなんてないし、渡したこともない。もっとよく見てみるかと箱から筆を持ち上げたとき、ふわりと甘い香りがした。
その匂いで今となっては苦い思い出が蘇る。そういえばあの時、持ち歩いていたはずの気に入っていた筆を失くして、散々探したが出てくることはなかったんだったか。
あいつ、ずっと持っていたのか。
変に真面目なんだよな、と思い出せない俺をみてつまらなそうな顔をしていた妻を思い出し、ふっと笑みがこぼれた。