結び



 背中に回されていた指がゆるりと解ける。
 ふたつの身体に僅かに隙間が生まれ、止まっていた時間が動き出す。
「もう、終わりにするのか?」
 やっと"妻"からその情を得られたのだ。できることならもう少し味わいたい。その腕が背中から完全に離れても、俺はまだ自分の腕を緩める気にはならなかった。
「余裕のない人は好かれませんよ」
 俺の肩に頭を乗せたまま、ちらりとこちらを見て妻が笑う。
「好かれない、ね。それでもこのままいさせようとする余裕ならあるんだが」
 顔を覗き込み、近づける。あの瞳が、今までと違う柔らかさを湛えていて、微かに上がる唇は皮肉とは違う感情を語っている。もっと、語らいたい。もう少しで触れ合いそうになった時、
「残念だけど」
 妻の声がそれを遮った。
「お生憎様。私は年始の用意で忙しいので」
 くすりと小さく笑うと背中に回していた手に指をかけ、解こうとする。だからといって、そう簡単に終わらせるのもつまらない。隙間に入り込む指に、逆に指を絡ませ、軽く握る。
 もう少し、俺と遊んでくれ。
 しかし、妻は非情にも絡めた指を握りしめたまま、まるでそう簡単に捕まえ続けられると思わないで、とでも言うようにふわりと俺の腕を開いた。
「嫌ってくれても構わないけど?」
「ああ、全く……好きにさせてもらうさ」
 その言葉を聞くと、妻がふっと笑った。
 最後まで絡めていた指をすっと引き抜くと、くるりと背を向けて扉に向けて歩き出す。離れていく背中は軽やかで、しかしもうそれは追うものではなかった。扉を開けようと手をかけた時、何かを思い出したように動きが止まり、こちらを振り返る。
「ねえ、一つだけ条件を増やしてもいい?」
「今更か」
「そう。でも大事な条件だから」
 ただ真っ直ぐ、俺の目を見ながら言葉を続ける。その瞳は、悪戯をしかける子供のように楽しげに光っていた。
「私より先に死なないでね」
 ――その言葉に、どれだけの重みがあるのだろう。
 その祈りにも似た言葉に僅かに目を細める。
「そりゃまた随分と難しい条件だ。できる限り善処させてもらうがねぇ」
「破ったら、契約破棄だからね」
 ふふ、と笑うと扉に手をかけあっという間に部屋の外に出る。扉の隙間からこちらを覗くと
「それじゃよろしくね」
 そう言って扉を閉めた。

 ぱたん、と音が一人になった部屋に響く。
 さて、とんでもない条件がついちまったな。最後に見えた微笑みを思い返す。部屋に入ってきた時の固く張り詰めたような表情とは全く違う、まるで初めて会った時のような挑発的で楽しそうな顔をしていた。決して叶えられることはないと分かっている癖に、敢えてそれを口にする、か。まぁ好いた女の願いだ。できる限り叶えてやりたいが、ね。と、その言葉に隠された心情に嬉しさと少しばかりの痛みを感じた。
 やれやれ、と牀に腰掛けたとき懐の中にあるものに気づく。おっと俺としたことが……。懐の中からそれを取り出す。この俺が渡すのを忘れるほど緊張するなんてな。箱の蓋を開ければ、中には簪が一本。この国では珍しい、透き通った深紅の石が飾られている。繊細な彫りとその石の周りに飾られた真珠。あの小娘の髪に挿したら、さぞや映えるだろうと選び作らせたものだ。渡したら、あいつの事だ。またこんなものを、と怒るだろうか。怒りながらも、その髪に挿してやれば抜き取ることはしないだろう。呆れながらも笑う顔とその黒髪に映える姿を想像しながら箱を閉じた。