十二月 白銀に紅玉
柱にもたれかかりながら、ただ庭を見ている。吐く息は白く、ひと時辺りを漂うと風に紛れて消えていく。昨日から降り続いた雪は、庭を覆いつくし、一面を白銀に変えていた。天を見上げれば、まだ飽きることはないようで、白い花をふりまき続けている。寒いのは好きだ。冷たい風が吹けば意識がはっきりと明確になる。痛みのような寒さを感じるたび、どこまでが自分でどこからが外かの境界が分かる。
私は私だ。
今朝、廊下で文和とすれ違ったとき、後で話があると言われた。
何の話かは分かっている。もう、あれから一年が経つのか。長いようにも、短かったようにも感じる。今の契約の条件には特に不満はない。最初はどうなることかと思ったけど、仕事にも慣れた。今のままだったら、この仕事を続けることに何も問題ない。そう、今のままの"仕事"なら。文和にそのつもりはないだろう。
全く、何をいいと思ったんだか。
そう呆れつつも、自分もまた彼に惹かれてしまっていることはもう否定できない。こんなつもりなかったのに。と、自分に対しても呆れてしまう。文和に対してこんな感情を持つなんてね。
白い息がより一層濃く纏わりつく。手を伸ばせば、振り落ちる雪がひとつ、その掌の中に落ちる。白い破片はすぐに掌の熱に溶けてじわりと広がった。握りこむようにその残滓を指で擦る。
もし、選んだものがただの幻想で、跡形もなく消えるものだったら?
どうしても文和にいいように動かされているような感覚を拭い去ることができない。もし、今までの全てがあの人の策で、その掌の上で駒として育てられているのだとしたら――。それでもいい、と思えるのだろうか。
握りこんだ指を開こうとしたとき、下女が私を呼び止めた。
「旦那様がお呼びです」
来てしまったか。ふぅ、とひとつため息を吐く。
向かうことを下女に伝えると、文和の部屋へ歩き出した。
部屋の扉の前まで来ると、一度大きく息を吸う。身体の中に冷たいものが入り込み、そして靄を絡めて出ていく。ここまで来たのなら、どうあがいてもしょうがない。あの時、この手で掴み続けると決めたんだから、今さら悩んだところで。そう言い聞かせて、扉に手をかけた。ぎぃと音を立てゆっくりと扉が開く。部屋の中には、奥の方で窓に向かって立っている文和の背中が見えた。その窓の向こうにも、また白い静寂があった。
後ろでパタンと扉が閉まる音がする。さぁ、もう引き返すことはできない。文和がこちらに振り返る。
「来たな」
その顔はいつもの余裕ぶった笑みを浮かべている。この顔が気安く感じる時もあれば、軽薄で胡散臭く感じるときもある。部屋の中まで進み、その顔を真っ直ぐに見つめる。二人だけの部屋は、しんと静まり返りわずかな衣擦れの音さえも耳に響いた。
「さて……何の話をするかは、わかるな?」
部屋の中に文和の声が響く。私を試すような、明るいくせに圧のある話し方。特に大きな声なわけでもないのに、息がつまりそうになる。胸の鼓動がうるさい。
「あれから、1年経った訳だが。……全くもって月日が経つのは早いな。歳を取ればなお早く感じる」
「だったら、はやく本題に入ったら?」
勿体ぶった話し方をするのを遮る。文和に、話の流れの全てを握られたくなかった。この先の話が分かっているからこそ、無駄な時間は減らしたい。
「あっははあ。ま、そうだな。あんたとの話で無駄な前置きはいらないか。では、単刀直入に行こう。前にも話したが、あんたの働きは申し分ない。こちらとしてはもちろん更新だ。ただし」
文和がにやりと笑う。
「これ以後の契約の期間を1年ではなく永続としたい」
目線がぴしりと噛み合う。逸らすことは絶対にできない。真っ直ぐに視線を交わしあったまま、文和がゆっくりと近寄ってくる。まるで、私がはいと言うだろうと、勝ちを確信したかのような顔で。私の目の前まで来ると、その目が少しだけ緩んだ。そして意外な言葉を吐いた。
「……なぁ、抱きしめてもいいか」
部屋の外で雪の舞う音がする。
さっきまでと違う、少し低くて寄り添うように柔らかな声。
私が良いとも悪いとも言わないでいると、文和の腕がゆっくりと動き出す。お互いに無言のまま、また一歩、私に近づく。まるで籠に鳥を閉じ込めるように、左右から腕が伸び私を包み込んだ。視界に映るのは文和の胸もとだけになる。
「更新するつもりなら抱き返してくれ。……しないのなら、はねのけてくれて構わん」
命令でも懇願でも突き放すのでもない、お前が選べと唆す。そのくせ、私をその腕で包み込んで、逃がす気はないと暗に言う。……でも、背中に当たる指は私を押すことはない。ただ、触れているだけ。
指ひとつ、動かすことができない。
道は決まっているのに、ここに来てまだ歩むことを迷っている。本当にこの道でいい?今だって、進む道を一本に縛りながら、さあ選べと狡い手を使ってる。この人を、信じられる?
俯いていた顔を上げる。背中に回されていた指が少し、震えた気がした。怖くはない。ただ、その顔が見たかった。ぶつかった視線の先で、本当に僅か一瞬だけ、文和の瞳が揺れた。まるで、怯えるような、不安そうな……そんな揺らぎだった。すぐにその瞳は穏やかになり、あんたのことは全部分かってる、と言いたげな色へと変わる。
その一瞬で十分だった。
固まっていた身体が、ふっと緩む。
この人は、ただ策を弄する冷徹な人間じゃない。もし、これで、この瞳すら演技だとしたら。その時は素直に負けを認めて、その後でまた考えたらいい。
だって……かわいく思えてしまったんだもの。
ゆっくりと腕を持ち上げ、そっと背中に添わせる。緩んでしまいそうな口元を見せたくなくて、その胸に顔を埋めた。少しずつ腕を伸ばし抱きしめる力を強くすると、私の背に回された腕もまた更に引き寄せるように力を込めてきた。
文和の心臓の鼓動が聞こえる。妙に早くて、彼らしくない。でも心地いい音。
これが、私が掴んだものなのね。
ふたつの熱がひとつの塊になって、その鼓動が落ち着きを取り戻した頃、耳元で囁かれた。
「契約は更新だな」
その声はさっきまでと違う、安心するような暖かみのある声だった。
「こっちを見てくれ」
埋めていた顔を上げると、すぐ側に文和の満足そうな顔があった。いつもと同じように笑っているのに、その瞳の色が違ってみえる。近くにいると、こんなにも気づけることを初めて知ったかもしれない。
「あんたにな、ずっと聞きたいことがあったんだ」
「なに?」
お互いにその瞳を見つめ続けている。でも、そこに不安はない。
「俺に、あんたの……俺の愛しい妻の本当の名を教えてくれないか」
名。そういえば、まだ教えていなかったっけ。
これからは、そう呼ばれることもあるんだろうか。文和から名で呼ばれる姿を想像して少しむず痒くなる。でも、もう嫌だとは思わない。
「私の名は――」