十一月 紅葉と選択
あれから、またしばらく時が過ぎた。
嵐は過ぎ去り、空は天を登るように晴れ渡っている。朝晩が冷え込むようになり、冬の衣服を纏うことが多くなった。季節は順当に移ろっていく。
あの夜の後も、何かが大きく変わることはなかった。文和は、近づくことも突き放すこともなく、そこにいる。手を伸ばせば触れられる距離にいて、それでいて触れてくることはない。ただ、気づけばこちらを見ている。まるで私を観察しているように。
視線を外すのはいつも私だ。この気まずさを抱えているのは私だけなのだろうか。
なんにせよ、あとひと月。来月になればこの契約も終わる。何があっても、なくても。
朝食が終わり、席を立とうとした時、文和が声を掛けてきた。
「今日は出かけようと思う」
「そうですか」
「他人事のように言うがな、あんたも行くんだぞ。ああそうだ、今日は動きやすい服装でな。男物でも着るといい」
唐突にどこかに連れだそうとする提案には、いい加減慣れてきた。でも、今日はその言葉のひとつが引っかかった。いつもはもっと着飾れとうるさい文和が、動きやすい――それも男装をしろと言うなんて。
「……そういう趣味が?」
「そんなわけあるか。着替え終わったらすぐに出るつもりだ。悪いが急いで支度してくれ」
「嫌と言っても無駄なんでしょう?……では後で」
何か考えてのことだとは思ったけど、その裏までは読み取れない。例えば……男性だけが行くようなところに連れ出すとか?
どうせ、問うても答えてくれるわけでもないだろう。さっさと奥へ下がると、侍女に着替えることを告げた。
服を着替え家を出ると、門扉の前に馬を連れた文和がいた。城に行くのでもないのに、いつもの服装に、ご丁寧にも革帯に鞄までつけている。
「来たな」
足音が聞こえたのか文和が振り返る。その目が、着替えた私の姿を確かめるように見る。化粧もしない、髪も幞頭でまとめ隠した。衣服はさすがに男物なんて持っていないので、下男からそれなりなものを借りた。さしずめ大人の服を借りた少年ぐらいには見えるんじゃないだろうか。
「そういう格好もまた似合うな」
本気で言ってるのか、馬鹿にしてるのか。この人は、私が虎の毛皮を被っても似合うというんじゃないだろうか。きっと睨みつけると、あははぁといつものように笑っている。笑いながら鐙に足をかけてひらりと馬に乗ると、こちらに手を差し出してきた。その手を取る前に、一つ気になることを問いただす。
「私が前?」
「そのつもりだが」
「子供じゃあるまいし、後ろで構わないんですが」
「生憎だがもう乗ってしまったんでな。今日は前で我慢してくれ」
少し困ったように眉を上げると、改めて手を差し出してくる。何を言っても無駄ね。その手を取り文和の前に乗ると、後から耳元に声を寄せてくる。
「なに、端から見たら息子でも乗せてるように見えるさ」
鞍に合わせて位置を調整するふりをして、肘で腹の辺りを打つ。呻き声が聞こえたが知らんぷりをした。
「……さて、そろそろ行くとするか」
手綱を握るために文和の手が後ろから延びてくる。私の腕に文和の腕が触れ、後ろから抱きしめられる様な形になる。その感触から少しでも逃れようと、腕を引き寄せた。こんなに距離が近いのはあの夜以来で、嫌でも思い出してしまう。
あの日、嵐の音に昔のことを思い出してしまった。ごうごうと吹き荒れる暗闇は絶望そのものだった。掴んでいたと思っていたものが、全て奪われ、零れ落ちていく。それは私の意思に関係なく、いつも唐突に起こること。大切だと思うものほど簡単にあっけなく、何度も。
あんな絶望はもういらない。もう、二度と味わいたくはない。
「落ちるなよ」
頭上から聞こえた声にはっと我に返る。耳のすぐ傍から聞こえるそれは近く、身体に残る。視界に映る腕が手綱を引くと、馬が走り出す。普通なら、きっと後ろにもたれかかって文和に身体を預けてしまった方が安定するだろう。でも、そうしようとは思えなかった。鞍の端を握り、わずかでも後ろに倒れないように身体に力をこめた。
街を抜け、門をくぐり抜けた途端、遮るものがなくなり風の当たりが強くなる。秋の終わりの風は、晴れた日でも身体を温めることはなく体温を奪おうとしてくる。
「寒くないか」
「別に」
文和の気遣う声に、にべもなく返す。
「そうか。若いあんたは気にならないんだろうが、俺にはちょいと堪える」
そういうと腕をぎゅっと内側に締めてきた。避けていた腕に押されて身体が後ろに倒れ、文和とぶつかる。
「ちょっと」
「悪いが目的の場所までまだかかるんでな。少しばかり俺を温めてくれ。それぐらいいいだろう?」
走っている馬上で身動きが取れるわけもなく、されるがままになるしかない。後ろに倒れた分また近くなる。揺れるたびに文和の髪が視界の端でさらさらと流れる。その腕に押され大人しくするしかないと、感じるものに集中してしまう。冬服の厚みに包まれた匂いと温もりが、優しさを帯びてまとわりつく。顔に当たる冷たい風と背中からじんわりと染み込む熱が、交わることなく私を挟み込む。
「どこに……連れて行く気なの」
「それは着いてからのお楽しみだ」
この居心地の悪い時間がいつ終わるのかと、文和に行先を尋ねても、やはり答えてはくれない。耳元で聞こえる声は、楽しげな中に少しの硬さがあった。文和と言えど、騎乗中は余裕がないのだろうか?ちらりとバレないようにその顔を盗み見ようとしたけど、こちらからだと影になってよく見えなかった。
どこか落ち着かない気持ちを誤魔化すために、文和の腕の隙間から周囲を見る。街から離れ、民家も減ってきた。たまに固まって家があると思えば、畑になり、草木になり、邑の外れまで来ている。いったいどこまで連れていかれるのだろう。連れていかれた先に何があるというのだろう。
「もう、じきだ」
温もりが混じりあってきた頃、文和がそう告げる。先程から馬は緩やかに坂道を登り始め、歩みがゆっくりになっている。山、というには穏やかな勾配で、道もそれなりに整備されている。人がよく来るところなのだろうか?
「あれが目的地だ」
横に向けていた視線を前に向けると、丘の頂上にそれが見えた。何も言えずにいる間にも、馬はゆっくりとそこに歩みを進める。目の前まで来たところで馬を止め、文和が先に降りる。無言で差し出された手を借りて自分も降りると、改めてそれを見上げる。
燃えるように真っ赤な紅葉。
その堂々と枝を広げ、空を真っ赤に染め上げる葉に目を奪われていると、後ろから声をかけられた。
「見事だろう?」
振り返ると文和が薄く笑みを浮かべて立っている。
「この木をあんたに見せたくてな」
私の横を通り、紅葉の側まで行くと幹から枝を掴んで引き寄せる。そこから葉を1枚引き抜くと、私に向かって差し出してきた。その指先に似合わないような小さな赤い葉。何がしたいのかと怪訝に思っていると、ん、とさらにぐいと葉を押し出してくる。受け取れということ?
手を伸ばし、差し出された葉に触れる。親指と人差し指でその葉柄を摘むと、文和の手がすっと離れた。
「あんたには赤が似合う」
満足気に笑う文和と手元の赤を見比べたあと、ここに来るまでの時間を思い出して告げる。
「まさかその為だけにここへ?」
「いや……」
文和は少し間を開けてふっと息をひとつ吐くと、腰に回している革帯に手をかけ、そのひとつを外した。そこに付けられた鞄と共に、こちらに差し出してくる。何をしたいのかわからないまま、それを受け取ると、それは想像以上の重みがあった。
「開けてみてくれ」
言われるままに鞄の蓋を開ける。中にはさらに布の袋がいくつか入っている。これも開けるのだろうか?じっとこちらを見つめる文和は何も言わない。止めないのなら、この中身を確認しろということなのだろう。袋の紐を解き、その口を開いた。中には、小粒の金がざらりとはいっている。その輝きに不穏な何かを感じながら、他の袋を開けると、そこには銭がはいっている。
「なに……これ」
「少し早いが、残りの契約金だ」
その言葉にハッと文和の顔を見る。残りは、1年経ってからのはず。
「なんで、今」
「ま、ついでだな。あんたはよく働いてくれた。俺の期待以上にな」
「だとしても、今である必要はないでしょう」
「ついでだと言っただろう。考えてみたら契約を始めてからあんたに休みというものを与えたことがなかったと思ってな」
文和は大袈裟に手を広げると、私に背を向けて紅葉の根元まで歩き出す。そこに着くと、おもむろにそこに座った
「ここならあんたを知る人は誰もいない。奥方として扱われることも、振る舞う必要も無い。契約金を渡すところも見られない。ま、休みだと思って自由に過ごしてくれ。俺はここで寝てるから、好きに羽を伸ばすといい」
そう言って手を頭の後ろに組んでごろりと横になると目を閉じた。一方的に言い渡された急な休みに、言葉を失いそうになる。そんなこと急に言われたって。それもこんなものまで渡されて……どうしろと?
「……わかった」
革帯を自分の肩に掛けると、戸惑いが落ち着かないままそう言い残して文和から離れる。あんなことを言われてそのままそばにいる気にはなれなかった。振り返れば、その薄目を開けて私がどうするかを観察しているだろうか?せめてその視界から消えてしまおうと丘を下る。
茂みを掻き分け、少し進むと小川が流れていた。覗き込めば川底がよく見える清流だ。そこまで来て、やっと溜めていた息を吐きだす。続いていた緊張が少し溶けたのか、肩に掛かる重みを改めて感じる。そのずっしりとした重みが何を意味してるのかを考えて、その革帯を握りしめる。水面には少年のような私が映っている。どうして文和は急にこんなことを?男装をさせて、人目のないところに連れ出し、まだ終わっていない契約の賃金を払う。ついでだ、と文和は言った。でもそれぞれを繋ぎ合わせて考えるとそれは、まるで――。
そこまで考えたとき、その思考を遮るように風が強く吹いた。思わず目を閉じる。冷たく肌を引き裂くようなそれは服をはためかせ、しばらく私に襲いかかると満足したのか去っていった。おそるおそる目を開くと、腕の向こうには許が小さく見えた。住んでいた許が、今はあんなにも遠い。
空には鳥が鳴いている。気高く力強く、遠くまで響く鳴き声。
羽を伸ばして、自由に、ね。文和の言葉を思い出す。そういう意味なんでしょう?
このまま、どこかへ行ってしまおうか。旅費、なんならしばらく何もしなくても大丈夫なぐらいはある。戻れば馬もいる。男の姿なら、黙っていれば怪しまれることもないだろう。契約金が払われたのだから、ここで終わらせても仕方がないはずだ。
後ろを振り返っても、見えるものは木ばかりであの人の姿は見えない。
今ならどこにでも行ける。全て捨てて。このくだらない気持ちも何もかも。そうして二度と会わない所まで行ってしまおうか。
何処かへ行ってしまえ、じゃない。何処かへ行ってしまってもいい。そう、私に決めさせようとしている。なんてお優しくてずるい策なんでしょうね。そこまで考えて、ふっと笑いが漏れる。
大事なものを持てば、同時にそれを失う痛みを抱えることになる。そんな絶望はもう嫌だ。今なら、まだ今なら手放せる。
許より先、遠くの山々を見つめながら早くなる鼓動を感じる。革帯を握りしめる指先が強くなる。ぐっと握りこんだその手をみると、さっき文和から渡された赤い葉があった。
あんたには赤が似合う。そう言った文和の顔に今までのことが重なる。契約を持ち掛けられた時、遠出を持ちかける時の企むような笑み、嫉妬してると言われた日の眼差し、嵐の夜の抱きしめられた腕の強さ。赤い葉に現れては消える思い出が心を揺さぶる。
本当に、それでいい?
うるさいぐらいに鳴っている胸が掴まれるような気がした。息が詰まりそうになるのを無理やり吸おうとしたとき、また急に風が吹いた。咄嗟に顔を庇うように袖で隠す。さっきよりも強い風は、あっと思う間もなく私の指からそれを奪い去った。
追うこともできず、どこに飛んで行ったのかもわからなくなる。本当にこの指で掴んでいたのかももうわからない。
風の行先と空になった手を見る。
これまでの人生、"誰か"が勝手に私の運命を決めつけて、奪って傷つけてきた。流し流され、生きることはそういうものだと思っていた。
もし、自分で決めたのなら。自分の意思で選んで、掴み続けようとするのなら。たとえ、また誰かが、いつか突然それを奪うとしても。その時までの全てを、大事に、大切にこの手で掴み続けるのなら、大丈夫だと思えるんじゃないか。
今、私は自分の意思で決めたらいいと、未来を渡されている。もう、ただ傷つけられて後悔したくない。
今なら、そう、できる。
後ろを振り返る。丘の上には鮮やかな紅葉がその大きな枝を伸ばしている。
◆ ◆ ◆
頬を撫でた風で目が覚めた。
寝るつもりはなかったのだが、いつの間にか寝ていたらしい。光が透ける瞼を開きかけて、また閉じる。今日の遠出は賭けだった。足に金に服装に、旅立とうと思えばすぐにでも旅立てるようにお膳立てをした。人目もない、俺も見ていない。あいつが今、それを望めばそうできるようにした。
己の今の状態に何も思っていないわけではないだろう。今まできっと多くのものを失ってきたであろうあいつの人生が、あいつの生き方を縛っているとしたら。その自尊心と自立心がある限り、契約において俺の傍にいるとしても、俺は心のどこかで常に疑い続けることになる。あいつが自らそれを望むようにならなければ。
別に来月でも良かった。だが、大丈夫と信じて蓋を開けてみれば――。なんてことを恐れてしまうなんてな。
目を開ければ、そこには誰もいないかもしれない。それなら、それで、それでいい、はずだ。あんたがそう望むなら。
そう、言い聞かせて俺は目をあけた。
青く広がる高い空に、真っ赤な影が目に飛び込んでくる。すこし傾き始めた日の光が、葉の隙間から零れ落ちて眩しい。手で影を作り、目を細める。草葉が風に揺れる音と、遠くに水の流れる音。他には何も聞こえない。上体をゆっくりと起こす。視界の中に人影はない。
いない、か。まぁ、そんなもんだ。所詮は契約でしか繋ぎ留められなかった縁だ。目元に手をやり、目を瞑った。あっけないものだ。結局、この俺としたことがあいつの心を読み切れなかった。策も無駄に終わり、賭けにも負けた。苦々しさが自嘲となってこぼれそうになった時、
「起きたの」
後から声がした。思わず振り向くと、少し離れた所に馬を連れたあいつがいた。
「いたのか」
「いちゃ悪い?」
木のそばまで来ると、引いていた手綱を枝に括り付ける。
「馬に水を飲ませてた。ついでに、自分が飲む分も汲んできた。飲む?」
「あ……あぁ」
当たり前のように隣に座りこむと、竹筒を差し出してくる。それを受け取ると、その顔はもうこちらを見ていない。その視線は遠く、青く霞む山の向こうまでを見ているようだ。
いつの間に幞頭を取ったのか、ほつれた髪が風に揺れている。
あんたはそこに"いる"のか。そこにいることを"選んだ"のか。
「なに?」
視線に気づいたのか、少しだけ顔をこちらに向けた。
「ゆっくり、できたか」
「おかげ様で」
その顔が微かに微笑む。朝よりも少しだけ柔らかい気がする。
「そうか。それならよかった」
喉から出る声が、自分が思っていたよりも安堵していることに気づく。らしくない、と誤魔化すように竹筒から水を飲んだ。
「そろそろ帰るか」
最近は日が落ちるのがいっそう早くなった。門を閉められる前には戻らないと。
立ち上がって汚れを払うと、結ばれていた手綱を取る。嘶く馬の顔を撫で、その背に乗ると、引っ張りあげる為に手を差し出す。だが、一向にその手を取ろうとしない。
「前は嫌」
そういえば行きの時も嫌がっていたな。大人しく腕に収まっている様は中々に楽しめたが、まぁいいだろう。
「わかったわかった、後ろに乗りな」
座る位置をずらし、改めて手を伸ばす。今度はしっかりと握り返され、後ろに乗った。
「ちゃんと掴まっておけよ」
そう言って腰の革帯をぽんと叩く。前に乗せれば落ちないように気遣えるが、後ろとなると本人にやってもらわねばならない。その白い手が革帯を掴むのを確認すると、手網を引いた。
日が傾き、世界が少しずつ赤く染まっていく。その見た目とは裏腹に風はどんどんと冷たくなり、肌を突き刺す。急がないと、暗くなってしまうか。
「少し飛ばすぞ」
馬の速度を上げると革帯の辺りが引っ張られる。もっと掴まってないと落ちるかもしれない。嫌がるかもしれんが、その手を引っ張ってでも抱きつかせるか、そう思った時、革帯を掴んでいた手が腹の辺りまで伸びてきた。腹の前で左右の手が重なり、堅く握りしめ合う。風に冷やされた背中が柔らかいものに包まれ、じんわりと暖かいものが広がる。
この背中の重みと熱が、今日俺が得たものだ。言葉にもならない、でも確かにここにある。早く帰らなくてはな。そう思った。
部屋に戻り、着替えるために革帯の留め具を外す。その時、ひらりと何かが起きたのが見えた。薄暗くなった部屋の中でも目を引くそれを拾い上げる。窓を開けて、落ちかけた夕日にかざす。ひとつの枯れも汚れもない、夕日よりも鮮やかに、燃える様な赤色。
葉柄を指で転がし、葉の裏表をくるくると入れ替える。寝ころんだときに挟まったか、それとも……。
ひゅうっと冷たい風が吹く。ぶるり、と体が震える。もう、秋も終わりだ。葉を机に置くと、もう部屋を冷やさぬように、窓を閉じた。