十月 嵐と傷
懐かしい音がする。
母が弾いている琵琶の音色だ。私が憧れて琵琶を弾き始めたきっかけの音。ふと目を覚ますと両親と弟たちと一緒に暖かい日差しのふりそそぐ花畑にいる。なんだ、夢を見ていたのか。家族の優しい笑顔にふっと安堵する。お母さん、と声をかけようとするとみんなが立ち上がってどこかに行こうとする。私も一緒に行く、と立ち上がろうとしても足が動かない。待って、行かないで。一人にしないで。なんとか立ち上がった瞬間転ぶ。顔を上げれば瓦礫に囲まれ轟々と燃える炎に囲まれている。すぐそばに昨日まで励ましあって生きていた友達が見るも無残な姿で転がっている。一人じゃない。何人も、何人も。うめき声が聞こえて、まだ誰か生きていると駆け寄ってもその手は力なく冷たくひえていく。周りの炎は身を焦がすほど熱いのに、その手は凍えるほど冷たかった。
自分の心も。
目を開けば、暗い天井が見える。燃え盛る炎も冷たい死体もない。花畑も家族もいない。柔らかい布団に一人でいる。起き上がると全身に汗がじっとりと張り付き、不快感がまとわりつく。荒れた呼吸を整えようとすると雷鳴が鳴り響いた。
ザァザァと激しく降る雨の音が聞こえ、悪夢の原因はこれか悟る。
じっとしていると、どんどん身体がくなりそうで寝台から起き出す。外は嵐だ。この季節特有の強い風と雨。これが今年の最後の嵐になるのだろうか。厨房まで行き水を飲む。隙間から風の音が響き、汗でぬれた身体が冷える。眠れる気がしないし、部屋に戻る気にもなれない。じっとしていることもできず、廊下をうろつくと一つの部屋に辿り着く。
部屋の主は不在だ。扉を開け中に入る。ふわり、と今になってはなじんでしまった匂いがする。誰もいない部屋はものが整然と片づけられており寒々しい。いない間も掃除はさせているので埃は落ちていない。その寝台に近づき腰かける。そのまま倒れこみ、ひと月前を思い出す。
戦場に出るため、ひと月ほど帰らない、と言う。支度を手伝いながら考えていたことを口に出す。
「帰ってこない場合はこの家のことはどうしたらいい?」
「おい」
いつになく真剣な目でこちらを睨む。
「こういう時にそういう話をするんじゃない」
「こういう時だからこそ聞いておくべきだと思ったのですが?」
「滅多なことを言うな」
「意外と験を担ぐ人なんですね」
「あんたの口から帰りを望まないようなことが聞きたくないだけだ」
真剣なその瞳からは怒気と少しの悲しみの感情が見えた気がした。そのあとは一言も口をきかず、見送りに出ても無言のまま出かけて行った。
あれから便りもなく、日々が過ぎひと月が経った。まだ、帰ってこない。あんなことを言ったから?母が昔同じことを言っていた。言葉には、力があるから滅多なことを言ってはいけないと。
さみしいなんて感情、とっくの昔に置いてきたつもりだった。じゃあ、今抱えてるこの気持ちはなに?
◆ ◆ ◆
土砂降りの雨と吹き飛ばされそうな風に煽られながら、家の門へと辿り着く。この嵐では気づかれないかもと思ったが、門を強く叩くと幸いにも門番が起きており、開けてもらえた。ひと月もかからず楽に帰ってこれると思っていたが、思っていたより手間取り今日やっと帰ってこれたのだ。昼前には城についていたが、後処理などで時間を取られこの時間になってしまった。そのまま城に泊まってもよかったが、家に送ったはずの書簡が執務用の机に積まれているのを見つけた。何もあいつに伝わっていないと気づき、早く帰らねばと嵐の中帰って来たのだ。
皆寝ているのだろう、出迎えもなく一人家に入る。ひとまずは濡れた衣服を着替えようと自室に入り、真っ暗な部屋の燭台に手持ちの灯りを移す。少し部屋が明るくなり振り返ると、目の端に黒い影が見えた。その方向、寝台の方に目を向けると髪も結わず寝着のまま倒れこんでいる妻がそこにいた。うつ伏せで倒れておりその顔は見えない。
扉の開く音がして灯りが灯っても全く動きのないその影に近づき、肩に手を掛ける。触れた場所が少しひやりとして一瞬ドキリとしたが、ただ冷えているだけで息はしている様だ。最悪の予想が外れたことにほっとしてその肩をゆする。
「おい、寝てるのか」
寝てるにしても、なぜ俺の部屋で寝ているんだ。普段は近づきもしないくせに、いない時になぜ。寝ていた身体がゆっくりと上体を起こす。顔はうつむいたままだ。
「俺の部屋でなにしてたんだ」
責めているつもりはなかった。単純になぜここにいるのかと聞きたかった。彼女の左手が俺に向かってゆっくりと伸ばされる。右腕の袖を掴んだかと思えばそのまま俺の胸に飛び込んできた。背中に腕を回し首元に頭を寄せ、濡れたままの服のことなど気にもならないように縋りつく。こちらからも腕を回し抱きしめると、首元に暖かいものが流れるのを感じた。冷えた身体の奥の熱が表面に浮かびあがってくるころ、妻が顔を上げた。それと同時に、雷が光った。その一瞬の光が彼女の顔を照らす。口を一文字に結び、こちらを見つめるその瞳は赤く染まり、涙が零れていた。
抱きしめられていた腕がほどかれ、胸を押し返される。
「なんでもない」
一言、そうつぶやくと部屋から去ろうとする。その腕を捕まえ、後ろから抱きしめる。
「無事に帰って来たから、泣くな」
腕の中の身体が強ばる。手で目をこすり、小さな首がこくりと頷く。抱きしめていた手を緩めると、ゆっくりと離れ扉に向かっていく。
部屋を出ていく直前、「ごめんなさい」と小さく声が聞こえた。