九月 油断に抱擁
「おかえりなさいませ」
出迎えの声がいつもより低い。家に着くと毎回妻が出迎えに出る。今までにも不機嫌そうな出迎えがある日は多々あったが、今日は特に虫の居所が悪いらしい。
「どうした。今日は随分とお疲れのようだが」
「御立派に働いていらっしゃるあなたほどではありませんよ」
部屋に行く道すがら問うてみれば、皮肉とも気遣いとも取れる返事が返ってきた。
「家の中だって色々あるだろうさ。今日は何があったんだ?聞かせてくれないか」
「今日は……朝から下女の喧嘩の仲裁に、未払いの発覚、迷子が庭に迷い込んで、さらに野良犬まで迷い込んで、対応してる間に迷子と犬が遊んで壺を割りました」
「そりゃとんでもない日だったな」
返ってきた内容に、そりゃ疲れもするだろうと納得する。さぞや賑やかな一日だったのだろうと、笑いながら肩越しに妻の顔を見ると、こめかみを抑えながら眉間に皺を寄せている。心なしか、さっきよりも顔色が悪いように見えた。
部屋の前につく。いつもならそこで別れ、一人で部屋に入り、ひと心地着くのがいつもの流れだ。
「悪いが、着替えるのを手伝ってくれないか」
振り返り、妻にそう頼むと眉間に寄せた皺がより一層深くなる。
「それぐらい、いいだろう?」
断らせないように再度頼む。その顔を覗き込もうとすると、不機嫌さを隠そうともせずにじろりとこちらを睨み、露骨に顔を背けた。わざと俺に聞かせるように大きな溜息をつくと、俺を押しのけて勝手に部屋に入っていく。
無言の背中について部屋に入る。箪笥の前まで行くと、妻がこちらに向き直った。
「一人で着替えもできないなんて、耄碌でもしました?」
「そうだな、俺も歳だからな、あっははぁ」
とぼけた返事に構うのも無駄だと思ったのか、それとも早く終わらせたいと思ったのか、こちらに背を向けて箪笥を開け始めた。その後姿にゆっくりと近づく。
「歳をとるとな、ま、見えるものも多くなるのさ」
着替えを取り出そうとした手首を掴む。振りほどこうするのを無視して引っ張り、そのまま牀に座らせる。
「あんた、随分無理をしてるな?」
その額に手を当てる。熱くはない。
「ふむ、熱は無い、か」
となると、頭痛あたりか。とりあえず横にならせた方がいいだろう。そう考えた時、ぱしりと鋭い音が響いた。額に当てていた手を払われ、憎々しげに睨め上げる顔が目に入る。
「心配は御無用です」
そう言い放つと、手首を掴んでいた手を振り払い、勢いよく立ち上がる。しかし、体調が悪い上に、急に立ち上がったせいだろう。俺を睨む目が揺らいだかと思うと、身体がぐらりと揺れた。何かに掴まろうとしたのか伸ばされた手を掴み、引き寄せる。わき腹に手を通して身体を支える。
「言わんこっちゃない。自分を過信するんじゃないよ」
まぁ、どうせすぐに俺を押しのけて離れようとするんだろうが。さて、どうやって大人しくさせたものかね。次の手を考えようとしたとき、ぽすり、と肩口になにかが当たる。その力ない動きにそちらの方を見遣ると、小さな肩が震え、ぎゅっと俺の袖を掴む。
一瞬、その想定外の動きに驚くが、これはむしろいい反応だ。さすがの妻も、身体の不調には抗えないらしい。髪に挿した花の匂いが鼻をくすぐる。普段からこれぐらい素直に甘えてもいいんだが、と思いながら脇を支える手を腰にまで伸ばす。このまま寝台まで運んでやろう。その体を引き寄せかけたところで、ぐっと押し返される。
「大丈夫、ですから」
うつむいたその顔はこちらからでは見えない。腕を伸ばして俺との距離を開けようとしている。頼りたくないとでも言いたげに、腕は精一杯伸ばして身体を離そうと抗う。そのくせ、その手はまだ袖を掴んでいる。
「そうか」
支えていた腕を引き抜いてやると、袖を掴んでいた手がびくりと震える。もう一度ぎゅっと握りこんだ後、指がほどけた。顔を横に背け、視線を合わせようとしないまま俺の横を通り抜け、そのまま部屋を出ていく。その背中を目で追うと、振り返りもせず部屋を出て行き、あっさりと扉が閉められた。
ま、あいつのことだ。本当の限界までは無理しないだろうさ。
やれやれと、先ほどまで妻を座らせていた牀に座ると、胸の中に収まりつつあった感触を思い出した。肩口に落ちた柔らかな黒髪。わずかによしかけられた体重。弱ったときに、思わず一息つける程度には信頼してもらえたかね。腕に残る熱が冷めていくのを感じながら、悪くはないな、とふっと小さく笑みが零れる。次はもう少し、あの温もりを留まらせたいものだね。