八月 首筋に髪紐



 手元から目を離し宙を仰ぐ。今日は朝から前から読みたいと思っていた書が手に入り機嫌がよかった。昼間の暑さにも長い軍議にも耐えて、仕事も全て終わらせ、早々に帰宅した。食事も風呂もさっさと済ませたところまではよかった。あとは眠たくなるまでゆっくりとこれを読んで楽しもう。そういう予定だった。だが、そんな夜に限って、部屋には昼間の熱が溶けずに残り、一向に過ごしやすくはならない。あまりの暑さに文字は目から滑り落ち、待ちわびた内容は頭の中に入るどころか読むことさえ拒んでいるようだ。いっそ外の方がマシではないかと部屋の外に出た。幸いにも今夜は月が明るい。この明るさなら問題なく読めるだろう。しかし……風がない。場所を変えたところで、じっとりと体にまとわりつく汗が引くこともなく、不快感は変わらずに読書の邪魔をする。
 今夜はもう諦めて寝てしまおうか。楽しみにしていた書だが、楽しみにしていたからこそ気持ちよく読みたい。今日のところは諦めて、水でも飲んで寝てしまおう。全くなんのために暑さに耐えながら早く仕事を終わらせたんだか。書を片付けながら、大きくため息をつく。
 その時、不意にどこからか声が聞こえた。

 はっきりとした声ではない。途切れ途切れに、音が上下している。しばらく耳をすまして聞いてみる。何かを歌っているのだろうが、内容までは聞き取れない。しかしその声の主が誰なのかはわかった。あいつなら読書の代わりの楽しみにはなってくれるだろう。声の主がどんな顔をするか想像しながら彼女の部屋に足を向けた。

「おいおい、なんて格好をしてるんだ」
 こっそりと忍び込んで驚かせるつもりが、その姿を目にした途端驚いたのは俺の方だった。音を立てないように慎重に扉を開け、声のするほうに目をやるとおもわず声が出た。月明かりに照らされたその背中は心衣の紐だけが結ばれ、その大部分を顕にしている。昼間なら暑かろうがきっちりと衣服を重ね、ちらりとも見せようとしない中身が無防備にも今、俺の眼前に晒されている。
 歌声の主は、俺の声を聞いた一瞬だけ仰いでいた団扇を止めたが、こちらを見ることも無くすぐにまた仰ぎだした。
 なるほど、俺の相手なんてしたくない、と。そういう態度を見せられたら、からかってやりたくなるというものだろう。
「そんな姿で歌って、俺を誘っていたのか?」
「暑くて眠れない上に、勝手に無言で部屋に入ってくる人がいるなんて、本当についてない夜」
俺への返事ではなく独り言のように呟く。頑なに俺を否定する姿をみれば、悪戯心が更に疼いた。
 彼女は先月の”あの日”のあとも、まるで何もなかったかのように妻としてふるまっている。だが、前より傍によることを拒むようになった。その体に触れようとすればするりと一歩下がり、目を見つめようとすればぷいと視線を逸らす。会話も前より素っ気ない。俺に対して、前とは違う意識を向けるようになったのは間違いないだろう。それでいて、ここから出ていくようなことはなかった。契約してるとはいえ、ここから出ていこうと思えばすぐにでも出ていっても問題ないはずだ。そうしない、ということは間違いなく"効いて"いる。
 逃げないのならば、仕掛けてみるか。

「なぁ、涼しくなるいい方法があるが試してみるか」
 彼女に近づきながら声をかける。当然返事は無い。
「もっと汗をかけばいいのさ」
 牀に寝転んでいる妻の後ろに立つ。いつもは隠れている肩の肌はいっそう白く、柔らかそうだ。
「例えばここで、二人で――痛っ」
 妻の肩越しにその顔を覗こうとしたら、仰いでいた団扇の骨が額に当たった。
「あらごめんなさい。そんなところにいると思わなくて」
 偶然ではない。容赦ないその攻撃は俺の動きを読んでいたようで、頭に響いた。
 じんじんと痛む額を擦りながら、牀に腰掛けると妻が続きを促す。
「で、二人で?」
「……水菓子でも食べないか」 「水菓子じゃ汗はかかないと思うけど」
 つんとすました顔で、団扇を仰ぎ続ける妻のその姿を改めて見る。衵服を身につけてはいたが、上半身は袖を抜いて腰の辺りに広がっている。さらに下に目をずらせば、裾の隙間からは大胆に脚が覗いていた。まるで妓女が客を誘うかのように。残念ながら、この娘は俺にしなだれかかって媚びたりはしないが。

 見つめていると、彼女の指がおもむろに動き出した。背中で髪をひとつに纏めていた紐を解く。
「ねぇ」
紐を俺のほうに前に差し出し、今度は当たり前のように話しかけてくる。
「結ってよ。上の方で」
 細めた瞳だけがこちらに向いている。その瞳を見るのも久しぶりだ。
「俺がか?」
「そう。"惚れた女"のお願いひとつ、聞けないなんて、まさか言わないでしょ?」
 唇の端が上がり、こちらに顔を向け首をかしげるその姿は、客をからかう女の顔だ。ただ一方的に押されるのを良しとしない、負けん気の強さがいかにも彼女らしい、と思わず口元が緩む。
「いいのか、俺に頼むと高くつくぞ」
「いつもの働きで十分にお支払いしてるはずです。やらないなら部屋から出ていってくださる?」
「やらないとは言っていない……櫛はあるか」
 傍の机の上から櫛を取り、俺に渡してくる。もたれかかっていた肘置きから身体を起こし、わざとらしく両手で髪を広げる。
「ちゃんと毛先から梳いてね」
「はいはい、贅沢なお姫様だ」
 彼女の後ろに座り、広げられた髪を肩から一度纏める。そのうちから一掴み取り出して毛先から櫛を入れる。もともとしっかりと手入れをしているのだろう、特に引っかかることもなくするりと解けていく。
 無言の部屋に櫛る音と団扇が仰がれる音だけが微かに響く。
 まさかこの俺が女の髪を梳くことになるとはね。そういえば、髪とはいえこの女が自らの意識で俺に触らせるのは初めてじゃないか?
 梳いた髪を端によせ、次の一掴みを取ろうとした時、その隙間から白い首筋が見えた。心衣の紐だけが飾る、無防備な首筋。俺の中で彼女への仕返しを思いつく。
 俺に頼むと高くつく、とは言ったからな?
 髪を選りわけるふりをして、そのしっとりと汗を滲ませている首筋を指の背でそっと撫でる。妻の肩がぴくりと上がり固まる。塩梅が重要だ。髪を梳いている時に触れてしまった。そう言い訳できる程度にしないといけない。自分から髪を結ってとお願いした以上、それを止めることができないぐらいの、そんな微かな避けることのできない仕返しだ。
 一束梳きあげる度にその首筋を撫でる。二度目からは反応することも無くなったが、わざとやっていることはおそらく察しているだろう。何事もないように団扇を動かし、自分が持ちかけた勝負の甘さに舌打ちしているはずだ。
 先程よりも団扇を強く仰いでいる。団扇の風が当たる度に細い髪がふわふわと揺れる。暑いからか、己の迂闊さに腹を立てているのか。その様子を楽しみながら、全ての髪を梳き終えた。全ての髪をまとめ、襟足から髪を持ち上げる。丁寧に櫛で髪を持ち上げると、件の首筋が露になる。昼間は髪を結い上げているから見慣れているはずのそこが、滲む汗と見慣れない白い肩に相まって、これみよがしに差し出されたご馳走のように見えた。とはいえ、ここで手を出してしまえば今まで積み上げたものが無へと帰す。今だけではない、今までの全てが、だ。

 ほかの髪も乱れることなくとかしつけ、左手でまとめて掴む。右手で置いておいた紐を取ろうとするが手が届かない。何とか手を伸ばして取ろうと空を掻いていると、妻の手が紐を掴んで渡してくる。こういうところは可愛いんだがな。ついニヤつきそうになるのを悟られないよう、手早く紐で髪を結ぶ。
「さぁできたぞ。俺の腕もなかなかのものだろう」
 ふるふると頭を振り、しっかりと結われているかを確認すると、まとめた髪に指を絡めするりと離す。
「まぁ、いいんじゃないですか?」
 及第点はあげましょう、と言わんばかりの顔だ。そんな顔を見ながら、身体の向きを変え、彼女の隣に座る。
「さて、髪結の駄賃を頂きたいんだがね」
「普段の働きじゃ足りないと?」
「言っただろう、高くつくと」
 彼女の頬に手を這わせこちらを向かせる。久々に正面から真っ直ぐに目が合う。その瞳には俺だけが映っている。
昔からこの眼に惹かれていたんだ。お互いに見つめていると、頬に這わせた手に暖かいものが触れる。彼女の両手が俺の手を包み、そしてうっとりと微笑んだ。いつもの強気で生意気な笑みではない。まるで愛しいものを見るかのような……。その表情に思わず目を奪われる。
 そのまま俺の手を掴むと、立ち上がり手を引く。引かれるままに歩き出し、彼女の後ろに続く。どこに向かうのかと想像したが、答えは早く出た。部屋の扉の前で立ち止まると、くるりと振り向いた。いつもの、あの口の端を持ち上げ、強気で生意気な笑みだ。
「駄賃には十分でしょ?」
 そのまま扉を開け、要は済んだとばかりに出て行けと促す。今夜のところはこの駄賃で満足しておいてやろう。彼女の貴重な微笑みに免じて素直に部屋から出た。
 廊下へ出ると躊躇いもなく扉が閉まる。やれやれ、と部屋を離れようとしたとき扉の向こうから声がした。
「水菓子、忘れないでね」
 念を押すような口調に、食い意地は変わらないな、とおかしくなった。読書代わりに楽しませてもらった分として用意してやるか。
 少しだけ変化した関係と、簡単には翻らない態度に、まだまだ策の仕掛け甲斐がありそうだと口の端が上がる。どうせ寝苦しい夜だ。寝るまで次の手を考えることにしよう。


◆ ◆ ◆



 暑い。手元の団扇を止めることなく動かしているけど、その風は生ぬるい。
 窓を開け放しているけど、入ってくるのは見事な満月の光だけ。風が通り過ぎることはなく、部屋の中には熱が籠っている。籠っているのは熱だけじゃない。あの日から余計なことが頭の中に巣食って出ていこうとしない。眠れない夜はそれをまた大きく育てようとする。
 薄々気づいてはいた。文和の行動が何を示しているのか。でも、私はそれを無視していた。それと向き合えばめんどくさいことになることはわかっていたから。気づいていないふりをして冬までやり過ごせば、契約が終わるまでそうしていれば、それでいいと思っていた。
 それをあの日、あいつが壊してきた。
 どんなに団扇を扇いでも、熱もなにも散ってはくれない。そのせいで眠れなくて、また余計な事を考えて、考えるから眠れなくて。ずっとその繰り返し。このままじゃいられない。襟元に指を掛け、袖から腕を抜き、纏うものをひとつ減らす。こうやって簡単に脱ぎ捨てられたらいいのに。

 素肌に団扇の風が当たる。
 あれから文和の目を見ることができない。その瞳がどういう意味を持っているかわかっているから。視線が合わないことに文和が気づいていないわけがない。けれどそれに触れないで、相変わらず軽口を叩き、食べ物やら花やらこまごまとしたものをわたしてくる。そうやって、私が無視できないように逃げ道を塞いでくる。掌の上で、じりじりと追い詰めてくる。その一歩一歩を楽しむように。
 文和のあの余裕ぶった笑みを思い出す。ああもう、むしゃくしゃする。
 あいつが私のことを好きだからといって、私がどうこうする必要なんてないはずなのに。
 こんな無駄な考えをため込んでしまうなんて、私らしくない。決断の遅れは命取りだ。
そう考えて、大きく息を吸い込んだ。そして息の続く限り吐き出す。二、三度繰り返すと、肩に入っていた力が抜ける。このろくでもない考えも一緒に全て吐き出してしまおう。息に声をのせる。声は音となって上下する。歌じゃない。ただ思いつくままに、思考をかき消すように。
 でも、こんな明るい夜じゃ溶けて消えてはくれないか――。そう思ったとき、後ろで声がした。

「おいおい、なんて格好をしてるんだ」
 黙って入り込んできたくせに、何を言ってるんだか。驚いたような呆れたような声が、落ち着いてきた私をまた苛つかせる。吐き出して消えるどころか、余計なものを引き寄せてしまった。よりによってこんな時に。
 この苛立ちの原因が、また楽しそうに寄ってくるかと思うとより一層腹が立ってくる。
「そんな姿で歌って、俺を誘っていたのか?」
「暑くて眠れない上に、勝手に無言で部屋に入ってくる人がいるなんて、本当についてない夜」
 攻めるほうは楽しくて仕方ないんでしょうね。文和の声は楽しそうだ。
「なぁ、涼しくなるいい方法があるが試してみるか」
 足音で近づいてくるのがわかる。そのままさっさと立ち去ってはくれなさそう。
「もっと汗をかけばいいのさ。例えばここで、二人で――痛っ」
 物音から間合いと頃合いを見計らって、団扇を振り上げる。コン、と小気味いい音が響いた。
「あらごめんなさい。そんなところにいると思わなくて」
 わずかにうめき声が聞こえたあと、文和が隣に座りこんだ。横目で様子を窺えば、こちらに背を向けて額を押さえている。いつもの布を巻いていないから、固い骨が見事に当たったのだろう。
 ざまあみろ。最近の仕返しができたようで、少し胸がすっとする。
「で、二人で?」
「……水菓子でも食べないか」
「水菓子じゃ汗はかかないと思うけど」
 そうだ。一方的にやられたままなんて、私らしくない。こちらからも仕掛ければいい。自分がどんな武器を持っているかはわかってるつもりだ。それを最大限利用すればいい。私は簡単に膝を追ったりはしない。あなただってそういう私に"惚れて"いるんでしょ?

「ねぇ」  髪を結っていた紐を解き、文和に向けて差し出した。
「結ってよ。上の方で」
 仕掛けるなら、逃げてはいけない。わずかに首をかしげて、挑発するように斜めに視線を送る。
「俺がか?」
「そう。惚れた女のお願いひとつ、聞けないなんて、まさか言わないでしょ?」
「いいのか、俺に頼むと高くつくぞ」
 文和がにやりと笑う。そう、この人はこんなことで怯みはしない人。追い詰めてばかりじゃつまらないでしょ。たまには舞台に引っ張り上げてあげる。
「いつもの働きで十分にお支払いしてるはずです。やらないなら部屋から出ていってくださる?」
「やらないとは言っていない……櫛はあるか」
 紐と櫛をわたし、文和に背を向ける。上半身を起こして、見せびらかすように髪を両手で広げた。
「ちゃんと毛先から梳いてね」
「はいはい、贅沢なお姫様だ」
 文和の手が私の髪を掬い、櫛で梳かし始めた。言ったとおりに毛先のほうから。団扇を仰ぎながら、背後の気配を楽しむ。文和から見たら、私の姿はほとんど何も身に着けてないような背中で、さらにいえばその先、脚の方だって夜着の一枚きり。わずかに身じろげば肌が見える。どうする?さらに煽ってやろうか。二人きりの部屋で、惚れた女の月明かりに照らされたそれらが目の前にあれば、気にもなるだろう。
 髪が結い終わるまで、離れることも目をそらすこともできないなら、どうなる?
 私は誘ったわけじゃない。ただ髪を結ってとお願いしただけ。これで手を出してくるような、契約は解消だし、その程度のつまらない男だと見下してしまえばいい。手を出してこないなら、その我慢してる様をを楽しめばいい。
 そもそも天下の軍師様に髪を結わせるなんて、愉快そのものじゃない。

 漏れだしそうになる笑いを堪えていると、ぞくりとした感触が背筋を這った。文和の指が首の後ろをするりと撫でたようだ。その気持ち悪さに、思わず肩をすくめてしまう。体に残る気持ち悪さに眉を顰めていると、文和が次の髪の束を梳き始めた。ただの偶然で触れてしまったのなら、仕方がないが反応してしまったのが悔しい。でも、もしわざとだったら?
 今のひと房を終え、次のひと房に移る時を待つ。今度は一瞬。また指が触れた。
 わざとか偶々か。ひと房梳かし終えるたびに触れたり触れなかったり、なぞるように触れるときもあれば、ぶつかる程度だったり。しらじらしい。文和のことだ、これは間違いなく意図してやっているのだろう。でも、指摘すれば、気にしすぎじゃないか、それとも期待してるのか?なんて返されそうな、そんなぎりぎりの触れ方。
 最初に触れたときの反応が調子づかせたのだろう。反応を試すような触り方が煩わしい。
 自分が挑発した結果がこれだ。わかってる。
 私の思いつきのような小手先のやり方じゃ、この人から見れば猫だまし程度のものなんだろう。意表を突ければ効果的だけど、慣れてしまえばあまり意味をなさない。ましてや正面からやりあって勝ち目がある相手じゃない。そんなことは昔からわかってる。 でも、人に好き勝手されるのは私の性に合わない。だったら意地でも張り合うしかない。

「さぁできたぞ」
 文和の手が髪から離れる。
「俺の腕もなかなかのものだろう」
 頭を振り、結われた場所を確かめる。紐は解けることはなさそうだし、ほつれもなくきれいにまとめられている。予想していたより高めで結んでくれたみたいで首元が涼しい。
「まぁ、いいんじゃないですか?」
 無駄に器用なんだから。もっと困りながらやってくれれば可愛げもあるのに。出来に満足したのか、不満げな私を面白がっているのか、後ろに立っていた文和が私の横に座り直す。
「さて、髪結の駄賃を頂きたいんだがね」
「普段の働きじゃ足りないと?」
「言っただろう、高くつくと」
 すっと文和の手が伸び、私の頬を触る。優しく引き寄せるようにゆっくりと横へ向かせる。目の前には文和の顔がくる。
 正面からこの顔を見るのは、あの日以来。あの時と同じように視線がぶつかる。
 ――惚れた女、ね。惚れたなら惚れさせておけばいいのだ。
 真っ直ぐに向けられる瞳から今は逸らしたりなんかしない。ここで折れれば相手の思う壺。文和の掌の上で踊り続けるなんて、まっぴら御免なのよ。
 その真っ黒な瞳を見つめながら、文和の手を両手で包みこむ。そのまま頬に押し当てて、猫のように擦りつける。指先を絡めて、まるで愛おしい人にやっと会えた時のように、うっとりと微笑む。
 文和の目が緩んだ。
 見つめ合ったまま牀から立ち上がる。文和の手を引き、扉の方へと歩き出す。扉の前にたどり着けば、もうここまででいい。
「駄賃には十分でしょ?」
 扉を開け、文和を追い出す。部屋から一歩でも外に出ればさっさと扉を閉める。
「水菓子、忘れないでね」
 扉の向こうにダメ出しのように声をかけた。

 足音が離れていくのを扉越しに確かめると、その場にしゃがみ込む。膝に頭を埋め、腕を抱える。別に男に媚びるなんてなんてことない。そういう仕事もしてきたし、今さら恥ずかしがることでも照れることでもない。
 でも、頬に押し当てた文和の手。文官というにはタコのある硬い皮膚の感触を思い出す。筆だけじゃない、武器を握る人間の手だ。戦場に立つこともあると前に言っていた。策を練るだけじゃない、自らも戦うことのある人間の手。彼が今まで生きてきた証のような手。
 そしていつもと違う、まっすぐな、でも鋭いわけじゃない。まるで大事なものを見るような、優しく緩んだ視線。
 今はじめて、認識したのかもしれない。契約相手でも、ましてや狡猾な軍師でもない。文和を、一人の人として。
 ああ、自分の手で厄介な悩みを増やしてしまうなんて。
 吐き出した息は、さっきよりもずっと深く重かった。