七月 客人と灼光
「お客様がお見えです」
下女からそう告げられ、迂闊にも、一瞬ぽかんとしてしまう。
"お客様"が……この家に?
文和との契約の時にも言っていたが、この家に誰かが約束して来ることは、ほぼない。たまに商人なんかの出入りはあるけれど、文和は仕事上のそういう『お付き合い』は外で済ませてくる人で、誰かを連れてくることはない。半年以上もそういう機会がないとなるとお客様を迎える、という仕事を忘れてしまっている。ああ、下女頭に確認して支度しないと、とこめかみに手をやったところで今日は幸いにも文和が家にいることに気づいた。ならば、彼が対応するだろう。私はお茶や食事の手配をすればいいのだろうか、と一気に頭の中で考えていると下女がさらに続けた。
「挨拶をさせるから身支度をしてこい、とのことです」
……わざわざ私を客人に挨拶させる?
客人が来たことも、挨拶をさせようとすることもなんだかひっかかる。しかし、それが仕事として命じられたなら従うしかない。下女に手伝うよう頼み、手早く身支度を整えた。
「あれ?青蓮じゃないか」
客間に入り、客人に向かって恭しく礼をすると、古い偽名を呼ばれる。声がした方をちらりと盗み見れば、見覚えのある色の薄い男が座っていた。
「なんだ、やっぱり賈詡って若い娘が好みだったんだ」
「別に、若いのが特別いいってわけじゃないんですがね……」
「でも、事実そうじゃないか。賈詡が結婚した話は聞いていたけど、奥方がどんな人か全然話してくれなくてね」
2人の温度差のある会話を聞きながら、礼を解き、勧められるままに椅子に腰を下ろす。目の前にはにこにこと楽しそうに笑っている郭嘉とうっとうしそうに眉をひそめている文和。……そういえば"あの時"もこの二人で店に来ていたっけ。
「荀彧殿や荀攸殿は会ったっていうし、私だけが会っていないのは寂しいからね。こうやって尋ねさせてもらったんだ」
「郭嘉殿、仕事は」
「終わらせてきたよ」
郭嘉がにっこりと笑う。郭嘉の微笑みは、一見柔和そうで人好きのする笑みだ。しかし、たまにそれよりも相手に対して何も言わせない、そんな雰囲気があることがある。今もそうだった。
「……二人とも妻に会った、というよりは見かけただけで紹介したことはないんですがね」
そんな空気を向けられては、言い返すよりも流してしまう方が楽だと思ったのだろう。文和は話を戻した。
荀彧、荀攸。その名前自体は文和から聞いたことはある。だけどその人たちの顔は私の記憶にはない。いったい、いつ、どこで見られていたのだろうと考えていると、郭嘉がこちらを向いて話しかけてきた。
「青蓮、あなたの奏でる音がまた聞きたいな」
「あら……、まだ覚えておいででしたか」
あれはもう何年前だったか。妓楼で琵琶を弾いて働いていた頃、その演奏が気に入ったと言われ、何度か席に呼ばれたことがある。彼はいつもお酒を飲みながら、楽しそうにあの微笑みを浮かべて私を見ていた。そのこちらに向けられる笑みは、何を考えているのかわらなく感じることもあり、私の背筋を冷たくさせたこともあった。だけど姐さんたちにはそれすらも好ましく見えていたらしい。
人を惹きつける端正な顔立ちと微笑み、細身ながらも男性的な体つき、立ち居振る舞いも上品、となれば個人的に抱かれたいと言う妓女も当然多かった。そんなことを懐かしく思い出す。
「君の音を一晩中聞かせてもらったのが忘れられないんだ」
……間違いではない。が、結婚した女に、その夫の目の前でそういう言い方をする。しっかりと私の目を見ながら、だ。挑発しているのか、素で言っているのか。彼の笑みからは、どちらともとれない。
「忘れて頂いて全然かまわなかったんですけどね」
「あなたのそういう態度、変わらないね」
ふふ、と笑う郭嘉の、こういうふわふわとした曖昧で余裕のある態度が、私に宴席での彼の姿を思い出させる。正体が掴めず距離を測りかねる、厄介で……でも相手をしていて楽しかった人。あの時感じていたものと同じ気持ちになり、思わず口元を緩ませてしまう。
「郭嘉様こそ、お変わりないようで」
「ふふ……。あぁそうだ、今ここでまた聞かせてくれないかな?」
「今ですか?」
「そう、今。ねえ賈詡、構わないだろう?」
文和のほうを見ると、一瞬だけ、その表情が何かを言いかけるように揺らいだような気がしたが、すぐにいつもの胡散臭い笑みを浮かべた顔になる。そして、自分も聞きたいから、と意外にも同意した。郭嘉に対しての煩わしそうな態度からは、早く帰って貰うのかと思っていたけど、そうでもないのだろうか。それとも、さすがの文和もこの郭嘉に対しては強く出られないのか、と思うとまた可笑しくなった。
客人にも夫にも頼まれては仕方ない。置いてあった琵琶を手に取ると、ばらり、ばらりと音の調子を確認して、華やかな曲を選んで奏でる。郭嘉はあの時と同じようにこちらを見つめていた。
「相変わらず見事な腕前だね。あなたの演奏はいつまでも聞いていたくなる」
曲が終わって、郭嘉からかけられる声は、あの時と変わらずするりと心を入り込んでくすぐる。こちらの警戒を解いて、自分の調子に取り込もうとする。こういう人だった、と改めて思い出す。そんなところを"皆は"好きになってしまうのだろう。
その後も聞きたいと言われるままに、何曲か奏でた。その間、郭嘉のほうを窺えば、こちらを眺めていたり、たまに文和に話しかけたりしていた。文和の方は、相変わらず眉間の皺を深めて煩わしそうに返事をしていると思えば、こちらにまでそのいつもより鋭くなった視線を向けてくる。そんなに嫌だったのなら、弾かせなきゃよかったのに。そのうちに、曲に満足したのか、それともうんざりしている同僚の姿に満足したのか。郭嘉がそろそろお暇しようかな、と言い出した。せっかくだからと食事に誘っても、待たせてる人がいるのでね、と嘘か本当かわからない言葉を残して席を立つ。それを追って、門まで送りましょう、と文和が見送りに共に部屋を出ていった。
琵琶を片付け、そろそろ私も部屋に戻ろうか、と扉に向かいかけた時、文和が見送りから戻ってきた。眉間に皺を寄せ、への字に口を曲げているその顔は、どう見ても先程にも増して不機嫌さが増している。郭嘉が帰ったのにまだ機嫌が治らないこと、そしてそれをあからさまに顔に出していることに、今日何度目かの違和感を感じる。いや、これはもう嫌な予感と言ってもいいかもしれない。苛立った感情を隠さずにいることも、それをこちらに向けてくることも全てがこの先にいいことがないことを示している。
「……郭嘉殿とは笑いながら話すんだな」
文和の声がいつもよりも低く、固い。
「夫の同僚相手に、わざわざ不機嫌で対応する妻はいないでしょう」
私の返答に、ぴり、と空気が張り詰めるのがわかる。いつものからかったりふざけるやり取り、という様子ではない。
嫌な予感が当たる前に部屋に戻ろうと文和の横を通ろうとすると、前を塞がれる。文和の言う通りに挨拶に出たし、演奏もした。それなのに訳のわからない苛立ちをぶつけられる謂れはない。
「何が、そんなに不満なんです」
下手な敵対は時間の無駄だ、と合わせないようにしていた顔を文和に向けると、二人の視線がぶつかった。呼吸ひとつするのも躊躇うような空気が二人の間に流れる。
そんな無言を破ったのは文和の意外な言葉だった。
「……俺には、あんなにこやかに話しかけてくることなんてないからな」
そんな、子供みたいな。心なしか声もさっきより小さい、ような。拗ねてる?いや、これはどちらかと言うと。
「それじゃあ、まるで郭嘉様に嫉妬してるみたいじゃないですか」
馬鹿な事を。またそうやってお得意の夫婦ごっこでも始めるのだろう、と文和の次の言葉を待ったが、しばらく経ってもなにも返ってはこない。文和の表情も崩れることなくこちらを見つめている。
「そうだ、と言ったら?」
その視線は揺れることなく私を捉えている。
「惚れた女が、他の男に自分には見せない笑顔を向けていて嫉妬しない男がいる思うか?」
「……冗談なら笑えませんよ」
「冗談なんかじゃない」
いつもの軽口でも皮肉でもないまっすぐな言葉が、瞳が、彼の感情が、私を逃さないと言わんばかりに突き刺してくる。……違う。これはきっとそういう罠、そうやってからかって動揺を誘って、その姿を楽しもうとしているんだ。そんな事に、騙されはしない。その瞳を睨み返しても、文和から曖昧にする言葉は返ってこない。
その沈黙に、今度は私は耐えられなかった。
「……用がないなら部屋に戻ります」
思わずだした言葉は震えていた。きっと気づかれた。文和を避けるように部屋から出る。目の端で文和を見ても彼は振り返ることもなく、そのまま立ち続けていた。
部屋に向かいながらも頭の中がうるさい。いいと言っているのに、贈り物をしてくること。それを身につけたのを見かけた時の満足そうな顔。どうでもいい理由をつけてはどこかへ出かけようとしたり、部屋に立ち寄ってくること。熱で弱った姿。力無く握る手。契約をしてから今までの文和の行動や表情が現れては消える。……そしてさっきの真剣な顔。
足が止まる。
惚れた女ですって?
冗談なんかじゃない、なんて。
これは契約の関係であって、契約が終われば何も残らない。でももし、もしもその言葉が、からかいでも本当に冗談でもないとしたら……?
柱に手を付き、外に目を向ける。庭には、夏の強い日差しに照らされて、青々とした緑が立ち上がり、競うように鮮やかに花が咲いている。
なんて皮肉なの。
強い光によって作り出された濃い影が、私を深く包んでいた。