六月 雨情と熱



 その日は朝から天気がイマイチだった。降りそうで降らない、風の生暖かい早く過ぎて欲しいような憂鬱な気分になるような日。
 最近は妻としての仕事にも慣れた。幸い奥様付きの下女として働いていたこともあるから、どんなことをすればいいのかなんとなく知っていたのがよかった。あの人が家に人が来ないようにしているのもその点ではとても助かっていた。その分二人きりになる機会が多いのは嫌になるけど。たまに下女達が、奥様は旦那様に冷たすぎる、旦那様が可哀想だ、なんて話をしているのも聞く。その同情心からあの人を誘って手を出してもらえばいいのに。妾でもなんでもとって契約が終わる頃にはさっさと解放して欲しい。曇り空で薄暗い窓の外を眺めながらまだ先の時を思っていた。

「旦那様がお帰りです」
 下女がバタバタと走ってきたかと思えば思わぬことを告げてきた。まだ昼前なのに?今日は早く帰るなんて特に言ってなかったと思うけど。
「今行きます」
 帰ってきてしまったからには仕方ない。"仕事"として、出迎えぐらいはちゃんとするようにしている。さっと衣服を整え、早足で玄関に向かう。

「おかえりなさいませ」
「……あぁ」
 恭しく礼をすると、いつもなら軽口の1つでも話すところなのに返事すらない。礼をといて顔を見上げると、顔が赤い。明らかに熱がある……と思った瞬間、ぐらりと頭が揺れ肩にもたれかかってきた。
「悪い」
 肩に手を置き、起き上がろうとするのを思わず抱きしめて支えてしまう。普段なら絶対こんな事しない。でも起き上がろうとすることすら辛そうな人に手を貸さないほどの情無しなつもりでもない。文和の出方を伺ってみるも、振り払う素振りも抱きつく素振りもない。もしかして、これはかなり重症なのでは?
 下女達に医者を呼んでくることと寝台の準備をさせる指示を出し、肩を貸しながら寝室まで運ぶ。1歩進む事に悪化してるのか文和から体重がのしかかる。熱も上がっているのか背中に熱を感じる。よく家まで無事に帰ってきたものだ。最終的に背負うような形になりながらなんとか寝台までたどり着くと、寝台の準備をしていた下女に手伝って貰い、上着を脱がせ寝かせる。そうこうしているうちに、医者がきて診察し疲労から来る風邪だろうと診断を下した。最近は雨が多かったから、その冷えた空気も良くなかったのだろうと。いくつかの薬をだして、これを飲んで養生すればすぐ良くなるだろう、と残して帰って行った。
 日頃、"旦那様"に一番同情的な下女に看病することを言いつけると部屋から出る。私が看病なんてする必要もないし、慈愛深く看病してくれそうな人に頼んだ方が楽だ。なんならそのままこの座を明け渡してもいい。

 自室に戻り一息入れる。外を見ればポツポツと雨が降り始めている。窓を閉め、ため息をつく。憂鬱な気分は抜けない。
 寝台に座り、雨音を聞く。家の仕事をこなすのは問題ない。使用人たちの雇い主に対する悪口や不満なんてどこにでもある話で、そんなことは些細なことだ。問題なのは”妻”としての立ち居振舞いだ。私達は、あくまで契約上の関係であって本当の夫婦なんかじゃない。"何か"あって契約が拗れるのはごめんだ。それでもあの人は”妻”としての役割をたびたび求めてくる。まったく何を考えているのか。腹が立つ。
 そんな考え事をしていると、扉を叩く音がする。どうぞ、と声をかけると先ほど看病を頼みつけた下女が入ってきた。
「あの……旦那様がお呼びです」
「なぜ?看病ならあなたにお願いしたはずだけど」
 下女の目線が一瞬床を這ったあとこちらを見つめる。
「その、奥様に……来て欲しい、と」
 思わず大きなため息が出る。ただ寝てる横にいるなんて誰でもいいじゃない。下女の不満そうな視線が目に入る。
「わかりました。向かいます。あなたは普段の仕事に戻って」
 下女を下がらせて再度ため息をつく。看病なんて妻の仕事のうちに入るんだろうか。それでも雇い主の指示なら仕方ない、と"旦那様"の部屋に向かった。

 部屋につき寝台の横に立つ。部屋には二人だけだ。
「来たけど」
 声をかけると、閉じていた目がうっすらと開きこちらを見つめてくる。
「そこに……いてくれ」
 力なくそうつぶやくとまた目を閉じる。眺めるわけでもない、ましてや寝てしまうかもしれないのにいて欲しいなんて、子供じゃないんだから。今日何度目か分からないため息をつき、椅子を寝台の横に移動させ、座る。どうせなら刺繍道具でも持ってくればよかったか。やることもなく、ただ座っているだけ。部屋を眺めても特に変わったものがあるわけじゃない。視線は自然に文和の方にむく。力なく横たわる腕。浅く上下する胸。少し苦しそうな呼吸音。赤く熱を持った顔。苦しいのか眉間による皺。あのいつもの余裕そうな眼も閉じられて、ただただ弱った姿をさらけ出している。
 窓の外の雨が強くなってきた。バラバラと雨音が部屋に、2人の間に響く。
 そっと文和に近づき額の上の布に触れば、そこに冷たさはなくぬるく額の熱が移っている。近くの手桶に入っていた水に浸し、絞ってまた額に戻す。冷やされる感触が気持ちいいのだろう、眉間の皺が少し緩んだ。
 いつか同じようなことしていた、と思い出す。流行病で苦しんだ弟、妹、父母。熱を出して数日でパタリパタリとみな私を置いていった。その先の人生でも知り合った人間が簡単に死んでいくのを見た。普通に笑いあっていたのに数日後には冷たくなっていたことも何度もあった。こんな時代だから、別に珍しい事じゃない。きっと誰しもが経験してることだ。
 この人もそうなるんだろうか。
 ……医者はただの風だと言っていたし、薬もある。暖かい部屋も、柔らかい寝台もある。痩せてもいないし、食事もちゃんとある。きっとそうはならない。
 それでも、それでももしそうなったら?
 あの真っ直ぐに見つめてくる眼も、軽口を叩く声も、私を捕まえる大きな手も。熱を失って動かなくなったら?

 嫌だな、と思ってしまった。

 早くこの契約が終わればいいと。これは仕事だと。そう思っていて、そういう契約の関係でしかないと思っていたはずなのに。いることを当たり前にしなければ、失ったときに辛くなることはないのに。共に過ごす時間が増えて、縁が深くなりすぎたのか。きっともう、この人に何かあった時に何も感じずにいることはできないのかもしれない。
 文和の右手が何かを求めるように動いた。恐る恐る自分の右手を重ねる。力ない手が指を握る。少し迷って握り返した。


◆ ◆ ◆



 目が覚めると部屋は暗くなっていた。昨日は確か出仕したものの体調が悪くなって、昼前に帰ってきたはず。寝台までたどり着いた記憶は無いが誰かが運んでくれたのだろう。
 熱があるのかまだ体がだるい。深呼吸して少しでも熱を逃そうとして、右手の感触に気がつく。そちらに目をやれば、俺の手を握ったまま頬杖をついてこちらを見る妻がいた。
「もういい?」
 俺が起きたことに気づいたらすっと手を離し椅子から立ち上がる。
「食欲があるなら食事を運ばせますけど」
 素っ気なく聞いてくる顔に軽く頷くと、さっさと部屋から出て行ってしまった。右手に残る手の感触と俺を見つめていたいつもと違う瞳を、熱で働かない頭で思い返しながらもう一度深呼吸をした。