三月 沈丁花と迷い子
春の始まりのような朝だった。まだ寒さは残るが昼には温かくなるだろうという予感を感じさせる匂いがした。
妻が朝の食事の席で、刺繍用の糸が欲しいと言った。家に商人を呼んでもよかったが、どうせなら街まで見に行こうかと誘うと、それなら一人で十分だという。休みだし、自分も用事があるからと説き伏せ、一緒に出掛けることにしたのはいい。だが、せっかく街へ行くというのに、支度を終えて出てきた妻はあまりにも簡素な服装で出かけようとしていた。もう少し着飾ったらどうだと伝えると「金持ちだと思われると吹っ掛けられるからこれでいい」と冷ややかな目で見られた。せめても、と庭の沈丁花を手折って渡すと、指でくるりと回し、すこしその香りを嗅いだ後髪に挿した。
相変わらず装飾品を贈ってもろくに着けもしない。なんなら受け取ろうとさえしない。だが、食べ物と花だったら受け取る。装飾品なら好みではなくても褒賞として受け取ればいいものを、仕事の報酬以上の物をもらうことはしたくない、と頑なに断る。その慎重さは褒めるべき点ではあると思うが、その意地の張り方に少々さみしさを感じることもあった。
必要なものを買い終わりそろそろ帰ろうかと歩き出したとき、子供の泣き声が耳についた。どこからかと見回すと、六歳ぐらいだろうか、店と店の間の路地を泣きながら子供が一人歩いている。前もよく見ていないのだろう、よたよたと歩きそのまま進むと大通りに出てしまう。止めたほうがいいだろうと思ったとき、俺が動き出すより横にいた妻が子供に向かって歩き出した。
「どうしたの?道に迷ったの?」
と泣いている子供の前にしゃがみこみ、子供と目線を合わせて話し出す。あやしながら話を聞き出すと、どうやら遊びに外に出たものの気が付いたらどこにいるのかわからなくなってしまったらしい。妻が子供の頭を撫でながらその涙を拭う。
「ちゃんと見つけてあげるから大丈夫だよ」
と落ち着かせようとする。どんなお家か覚えてる?と聞くと、しばらく考えたあと
「おねーちゃんと同じ匂いがする家なの」
と思い出したようだ。
「匂いってこのお花の匂い?」
髪に挿していた花を抜き取り、子供の前に差し出す。受け取ると家を思い出す匂いで安心したのか子供に少し笑顔が戻った。
「お姉さんたちが一緒にお家を探してあげるからね」
そう言って持っていた荷物を俺に押し付けると、子供をおぶって歩き出そうとする。
「おいおい、そいつを背負うなら俺が背負ってやる」
「いい、私が背負うから荷物持ってて」
こちらも見ずに先に進んでいくのは、俺の考えなどどうでもいいのか、それとも自分で子供をあやしたいのか。本人がやりたいと言っているんだ、逆らう意味もないだろう。根を上げたら手伝えばいい、と後ろをついていくと歌声が聞こえてくる。子供を安心させるためだろうか、妻が歌を歌っているようだ。どこの歌か、聞いたこともない節回しだが不思議と安心する穏やかな歌声だった。その声を聞きながらしばらく歩き回り、何度目かの角を曲がったとき、ふわりと甘酸っぱい香りが漂ってくる。ここ!と子供が嬉しそうな声を上げた。
帰ってこない子供を連れてきてくれた、と家族の物に感謝され、お礼をと言われても妻は断る。当然のことだからと何度か断ったが、大事な一人息子なので、と向こうも引き下がろうとしない。これでは埒が明かない思ったのだろう。妻は渋々とじゃあこれをください、と庭先の沈丁花を指した。
おそらく髪に挿していた程度もらうつもりだったのだろうが、子供の家族はちょうど移動させるために掘り出してあった一株を丸々と渡してきた。小さめの株とはいえ、これと今日買った荷物。持てないことはないが……。全てを抱えながら、前を進む妻に追いつくと横から顔を覗き込む。
「あんた、意外と子供には"お優しい”んだな」
「私はいつだって"お優しい”ですけど?ふざけたことをする人以外には」
立ち止まり、つんとした顔をしながらこちらに手を出してくる。荷物を渡せということか。
「あんたはさっきまで子供をおぶっていたんだ、疲れてるだろ。俺が持つさ」
「そう?」
と言うと特に突っかかりもせずに歩き出した。荷物を預けてもいいと思うぐらいには信頼されたのか、いいように使われているのか。優しいのか無関心なのか。またまだこの小娘の考えていることは分かりかねるな、そう思っていた時、
「それに、こんな時代だもの。本当の別れだっていつ来るかわからないのに、悲しい思いなんてしないほうがいいでしょ」
隣からぼそりとつぶやくのが聞こえた。
「別れがつらいから近寄らないのか」
「……」
返事はない。表情もなく、そこからも何も読み取れない。しかしこいつの人を近寄らせない理由が少し見えた気がした。初めて会ったとき、おそらくまだ少女といえる年だったころからそういう世界にいる娘だ。幾度となく別れを経験しているはずだろう。おそらく家族もおらず、誰も信用できず、女ながらに自らの実力だけを武器にこの世界を生き抜いてきたんだろう。信じられるのは己のみ、か。自分に似ている。そこがこの娘に惹かれる理由なのかもしれないな、とそう思った。