それはつまり諾ということ
こんこん、と扉を叩く。
「俺だが、いるか?」
中から返事はない。
今日は、朝から次の戦に備えて頭を捻っていた。戦わずして勝つが最上とはいえ、その全てを回避することはできない。兵の配置を考えるために地形を確認しようとしたとき、用意しておいたはずの地図がないことに気づいた。
昨日、”あいつ”の部屋で雑談した時に、説明がてら広げて、そのまま置いてきたのかもしれない。そう思い出して、部屋の前までやってきた。
もう一度扉を叩く。やはり返事はない。扉に手をかけると、簡単に開いた。部屋の中には誰もいない。
無用心だな。
いつも部屋を空ける時には鍵を閉めているのに。訪ねたのが俺だからよかったものの、間者でも入り込んだらどうするつもりだったのか。今度つついてやろう。
まぁ、勝手知ったる部屋だ。主のいない部屋に入り込むと、辺りをぐるりと見渡す。机の上には地図はない。その代わり、硯には使いかけの墨が残り、筆は洗われないままに置かれている。
仕事の気晴らしに少し外に出たか、急に呼び出された、というところか。
だとしたら、荀彧殿も中々に人使いが荒いらしい。いや、それも彼女が”使える”と判断されているということだろう。
机の上にないとなると、書架か。棚に置かれた竹簡や紙の束に目を向ける。親しい仲とは言え、勝手にそこらを漁るのはさすがにまずい、かな。
地図も全く覚えていないわけではない。部屋の主が帰ってくるまで、静かな部屋で策を巡らしながら待つのも悪くないだろう。そう思い、来客用として置いてある牀几に腰を下ろした。
ぱさり、と後ろで音がした。振り返るとそこには青い布が落ちている。拾い上げ広げると、それは彼女がいつも着ている上衣だった。
几帳面なあいつが、脱いだものを畳もせずこんな所に無造作に掛けているなんて珍しい。埃を払おうと服を揺らした時、ふわりと花の匂いが鼻をくすぐった。微かに甘く、凛とした気高さのある匂い。それに気づくと、思わず口の端が上がりかける。と、同時に疑問が浮かび上がった。さて、”あれ”はこんなものだったか?
記憶の中の匂いは、こんなに甘くはなかったはずだ。確かめるために、上着を鼻元に寄せる。
「なにやってるんですか!」
バン、と勢いよく扉が開かれる。そこには部屋の主が立っていた。辺りをきょろきょろと窺ったあと、部屋の扉をしめると、勢いよく俺に向かって来る。
「扉の鍵が閉まってなかったぞ」
「そういう問題じゃないでしょう」
俺の手から上着をひったくると、隠すように胸元に抱き抱えた。ちらりと周りを伺うと、小声で文句を零す。
「いくらその……付き合ってる、とはいえ……その行動は、変態的だと思いますよ」
本気で引いているのか、引きつった顔のまま俺を睨んでくる。
「落ちていたのを拾ってやったのに、酷い言い草だねぇ」
「拾ったものの匂いを嗅ぐ必要はないでしょう!」
まったくもう、と文句を言いながら上着を羽織り、紐を結ぶ。こちらに向き直れば、お堅い女文官の彼女がいた。
「で、何しに来たのです?」
「昨日、ここに地図を忘れたと思ってね」
「あら、昨日の御教示のあと、親切にも私に下さったのかと思ってました」
「まさか。あんたならやらなくても頭に入ってるだろう?捨てたりしてないだろうな」
「ちゃんととってありますよ」
笑いながらそう言うと青い上衣を翻し、壁の書架へと移動する。ふわりと揺れた裾から、またあの匂いがした。
ふと、ひとつの予測が頭をよぎった。
気づかれないように、その後について行く。彼女が棚に手を伸ばして地図を取ろうとした時、その手を阻むように手首を掴んだ。反対の手も棚に掛けて、彼女を書架と己との間に閉じ込める。
「なにをす……」
振り返りかけた彼女の襟元に鼻を寄せる。鼻の先が首筋に当たると、肩がびくりと震えた。そのまま大きく息を吸う。さっきと同じ匂いだ。手首を掴んだ指を解き、手の甲をなぞる。彼女の指と指の間に己の指を滑り込ませる。軽く握ると、反応か反射か、俺の指をきゅっと握り返してきた。
襟元からうなじへ、確認するようにゆっくりと嗅ぎ登る。耳の後ろまで来た時には、その先端が真っ赤に染まっていた。
「やっぱりな」
「なにが……なにが、やっぱり、なんですか」
消え入りそうな声を震わせながら彼女が文句を言った。
「あんた、あの香を焚いたんだな」
あの香とは、先日彼女に俺が贈ったものだった。真面目な彼女が、職場で甘い香りをさせたくないと相談してきて、一緒に選んだ。そう、甘くないものを選んだはずだった。
「職場で、使うものですから」
「違うな」
香とも違う、この匂いは、
「あんた自身の、甘い匂いがする」
「なっ……」
俺の言葉に彼女が振り返った。その顔は真っ赤に染まり、何かを言いたげに口を開いてるのに、何も言い出せずに宙を噛んでいる。そんな反応をされたら、また楽しみたくなるじゃないか。
「今日、俺は仕事を早く終わらせるつもりだが……」
――もっとあんたの匂いを嗅がせてくれるか?
耳元で彼女だけに聞こえるように囁く。
「……善処、します」
「あっははぁ、じゃあ終わる頃に迎えに来る」
俯いて視線を外しながらも、返してきた了承の言葉に満足する。棚から俺の探していた地図を抜き出すと、彼女を解放してやった。
「余計な仕事を引受けるんじゃないよ」
部屋を出る前に振り返り、彼女を見ると、真っ赤な顔がさらに赤くなる。
もうっ!と怒る彼女の声を聞きながら、扉を閉じた。
さて、俺も残りの仕事をさっさと終わらせてしまおう。約束しておいて、俺が遅れるんじゃ示しがつかないからな。
難解な仕事も楽しみがあれば、よりやる気が出るってもんだ。少しだけ上機嫌になりながら、自分の部屋に足を向けた。