烏有



 ガチャリ、と金属の噛み合う音がする。暗い石造りの部屋にそれは想像以上に響いた。扉を開け中に入ると、それまでの黴臭い匂いと違うむっとした生臭さが鼻につく。普通ならあまり長居はしたくない場所だ。
 石床に足音を響かせて部屋の奥まで入る。奥の壁には女が一人、枷に繋がれていた。その手足には連日の責め苦の跡が痛々しく残されている。俺が近づいても、寝ているのか顔をあげる素振りもない。ただ浅い呼吸音が僅かに聞こえる。

 女は数日前、曹操殿を暗殺しようとして失敗した。少人数での酒の席で余興として呼ばれた舞姫の一人に扮していた。圧倒的な美貌と舞の華やかさに、曹操殿が褒美をやろうと近づけさせた時、簪を抜き取り刺そうとした。幸いにも、側にいた郭嘉殿がそれに気づいて阻止し、夏侯惇殿たちが取り押さえた。
 そして獄に繋がれ拷問を受けても、その雇主の名を一言たりとも吐こうとしなかった。

「起きろ」
 俺の言葉に彼女の髪が僅かに揺れた。顔は伏せたまま動かない。無視しているのか、それとも反応する余力もないのか。
「曹操殿は人材を集めるのがお好きなようでな。あんたのその忠義心が気に入ったようだ。雇主の名を吐き、我が元で働くと誓うなら命を許すそうだ」
 自分でその言葉を吐きながら、鼻で笑いたくなる。誰かを見ているようだ。
「どうだ?このまま行けば、あんたはただ死ぬだけだぞ」
「殺せばいい」
 女は顔も上げずに、そう呟いた。その声に表情はない。
「……そんなに雇主が大事か?」
 そう問うても返事はない。もう何も言うことは無いとでも言うように、ピクリとも動かない。
「あんたのような若い娘なら、くだらない忠義を貫くよりまだまだ長い人生を求めた方がいいと思うがね」
 女の身空で随分とご立派なもんだ。鼻で笑ってその場を立ち去ろうとした時、
「忠義なんてない」
と女の声が小さく、しかし確かに聞こえた。
「それなら何故生きることを望まない」
「あたしは……生まれてからずっとこのために生かされてきた。物心つく前から、人を殺すための技術、知識、そのための全てを叩き込まれてきた。言われるがまま命じられたことを遂行してきた」
 話すことも苦しいのか、時折言葉を途切れさせながらも女は続ける。
「どんなに汚れた仕事を忠実にこなしても……失敗して捕まれば……誰も助けになんてこない。ただ、口を割らずに死ぬことだけを求められてる。それが例え曹操に仕えたところでやることは同じ。必要が無くなればまた簡単に捨てられる。今までの血の滲むような努力も修練も……なにもかも、それだけで終わる。ほんの少し生きる時間が延びるだけなら、今もう終わらせても同じ。私は、もう……疲れたの」
 女はそこまで話すと、ハッハッと荒く息を繰り返した。それすらも痛むのか耐えるように手が鎖を掴む。
「だったら俺に仕えるのはどうだ」
 哀れみではない。
「俺も降将でな。別に曹操殿に心底惚れ込んでる訳じゃない。俺はな、乱世でこの頭を試していきたいだけだ」
 もの惜しさでも、何かをそこに重ねたのでもない。
「あんたが俺の駒になるなら、俺は簡単にあんたを捨てたりはしない。血の滲むまで努力し己を磨いたあんたを、骨の髄までしゃぶって使い切る。それこそ"死ぬまで"だ」
 しゃがみ込み、女の瞳を覗き込む。
「どうだ?」
 初めて見た女の顔は数日前に輝いていたとは思えないほど、血で汚れ痣に塗れていた。濁りきったその瞳が僅かに動き、俺を見つめ返す。
「いやだね」
 それだけ言うと、僅かに唇を上げた。
「そうか、そいつは残念だ」
 再び頭を垂れた女から離れ、扉に手をかけた。
「処刑は明日だ。せめて楽に逝けるよう祈ってるよ」
 振り返らずにそれだけを告げる。扉の鍵が閉まる音が響くと、もう何も聞こえなかった。

 翌日、女は予定通り刑場に散った。
 金を握らせた刑吏から、"女"が入った袋を受け取る。
 あの後、曹操殿の命を狙った罪は重く、また見せしめの意を込めて厳しく処断した方がいいと進言した。そのお陰で女の罪は一等重くなり、斬首の刑となった。明日にはその雇主も捕まり同じ目に合うだろう。女が吐かずとも、とうに調べはついていた。
 袋を担ぎ、馬に乗って人里離れた山にたどり着く。手頃な場所を見つけると、そこに鍬をつき立て穴を掘った。袋の口を開け、女の首を取り出す。
 叩き殺されるよりは、苦痛が少なかったんじゃないか?
 女の顔に苦悶はなく、眠るように目を閉じていた。顔の汚れを拭ってやり、身体と共に元のあるべき形に並べて土をかける。

 そんなに死に急がなくてもいいと思ったんだがな。

 色の違う地面を見つめる。少しだけそうすると、踵を返した。