不覚な桃かじり
カツカツと足音が暗い廊下に響く。角を曲がり、そこからさらに数歩進んで足を止めた。
「なにをやってるんだ、俺は」
時を少し遡る。
庭の木陰に隠れた一角。壁と木に囲まれ、一目ではそこに人がいるとは分からないような場所。申し訳程度に設置された石を椅子代わりに腰を下ろしていた。隣にはうら若い女官が一人。同じように座っている。完全に日陰にいる俺と違い、葉の隙間から落ちた光が彼女の顔をチラチラと照らしている。そんなこと気にもしないのか、彼女は先ほどからずっと休むことなく俺に話を聞かせていた。
「昨日、また郭嘉様が女官を口説いていたんですよ。でもその子は恋人がいたので断ったんですが、さすがですよね。それは残念って特にごねたり食い下がったりしないで去っていたんですって。顔がよくてモテる男の人は違いますよね」
噂話、というものは馬鹿にはできない。特に女がする噂話というものは面白い。女官たちの間では誰それが付き合っているという恋愛話から、給仕している食事の内容から分かる主の好物や厭物、過去の行動からこの先の予定まで多岐にわたる。誰と誰が喧嘩していた、某人は上司に対して不満が溜まっている、そういう話も大いに聞ける。こういうところから拾う話が、交渉する上での弱みを握るのにも甘言を弄するのにも使える。
特にこの女官は顔が広いらしく、所属や住居に関係なく様々な人間の噂話を知っていた。知っている分、話したくて仕方ないのだろう。他の女官と噂話をしている時に、面白そうな話をしてるじゃないか、と割り込んだのがきっかけだった。それから度々こうやって噂話を聞かせてもらっている。
「そういえば賈詡様、知っています?この前――」
とはいえ、今回は輪をかけて長い。
もう話し始めて半刻は経っただろうか。最初のうちこそ「ははぁ」「なるほどね」「ほぉ」と相手を興に乗らせるためにも相槌を売っていたが、どうやら乗らせすぎたようだ。俺の相槌がなくなっていることに気づいているのかいないのか、さっきから止まることなく一人でしゃべり倒している。
要領よく仕事をこなしているから、執務室を多少空けてサボっていたところで問題にはならんが、流石に聞くのにも疲れてうんざりしてきた。何とかして切り上げられないものか。我ながら自分勝手なもんだ、と己に苦笑する。いい加減どうにかしてこの口を閉じさせたい。さてどうしたものかな、と女官を見る。その口は、やはり閉じる気配はない。
それにしても、よくもまぁこんなにも動き続けるもんだと思う。
桃の花のように淡く色づいたそれは、まるで跳ねるようにせわしなく動き続ける。娘が笑う度にぱっと開き、不満を言えば尖らせるように突き出す。かすかに開いて止まったかと思えば、また揺れ動く。
「それで、徐晃様と張遼様がどちらがたくさん肉まんを食べられるか勝負することになって――」
ころころと笑いながら、その柔らかい形は飽きることもなく動き続ける。上下に、前後に、ゆらゆらと。年頃の娘の、みずみずしい、まるで食べ頃の桃の実のような、それ。
「賈詡様はどちらが勝ったと思います?」
ああそうだ、こうすればいい。
「賈詡さ――」
返事のない俺に気づいたのか、娘がこちらを振り返る。その瞬間を見計らって、ぐいと近づくと動きの止まった娘の顎を掴んだ。驚きと不安で固まっている娘とは反対のそこに、己の唇を軽く押し付ける。想像通りの柔らかさを感じながら、熟しかけた果実を味わうように軽く挟むと、少しだけ力を入れて引っ張りながら離した。
ちゅっと惜しむような音を立てて唇が離れる。
「あんたがおしゃべりなのは知ってるが……少ししゃべり過ぎだな」
「なっ……えっ」
娘は目をぱちぱちと瞬かせ、未だ何をされたのか理解できていないような顔をしている。自分の痕跡を拭うように、親指で女官の下唇を撫でながら顎から手を離す。みるみるうちにその顔が朱に染まっていく。
「さて、これ以上は付き合いきれんね」
こうなっては長居は無用だ。立ち上がり、彼女に背を向けて歩き出す。
「ちょっと……賈詡様!?」
我に返った女官の呼び止める声を背中に流しながら、さっさとその場を後にした。
暗い廊下に足音が響く。カツカツと鳴る音は一人分。後ろから誰も追ってきていない。角を曲がり、足を止めて周囲を見渡す。人影がないことを確認すると、そこでやっと大きく息を吐いた。らしくもなく早足になっていたのか、少し息が上がっている。
「なにをやってるんだ、俺は」
布の上から頭をバリバリと掻く。
まったく……黙らせるにしたって、他にやりようがあっただろうが。先程のやらかしを思い出す。こういうやり口は、郭嘉殿なんかの得意とするところだろう。気づいたら口付けしていた、なんてケツの青いガキじゃないんだぞ。
……あの女官、言いふらしたりしないだろうか。いや、他人の事ならともかく、俺に唇を奪われたなんぞ、自ら広めたところで己の首を締めるだけだ。そうだ。ま、それに俺の人格評判が落ちたところで今更だし、そもそもシラを切って否定してしまえばいい。ああ、そうだ、誰にも見られていなかったよな?あそこは壁に囲まれて陰になった人目につかない場所だ。大丈夫、のはずだ。
己の犯した思いがけない失態に、頭を抱えながら指を唇に当てる。ざらりとしたその指先の硬い感触が、先ほど触れた柔らかな娘の唇を逆に思い出させる。朱に染まった顔。ぷるりと震えた桃色の――。
ああ!もう!忘れてしまえ。まったく俺らしくもない。なにが打算だ聞いて呆れる。
ほんの気の迷いだ。忘れてなかったことにしてしまえ。
顔が熱くなるのを堪えるように、ぐっと唇を締める。らしくない失態を記憶から消すように、もう一度大きく息を吐いた。