それは跡形もなく溶けた
「今夜、"いつもの"客がくるとさ」
夜の仕事のために妹分の髪を結っていた時、楼主が断りもなく部屋に入ってきた。
「さっき使いが来て、そう言っていったよ」
にやにやと笑みを浮かべながら部屋に並べた衣装へ一瞥をくれると、ふん、と鼻を鳴らす。
「よかったじゃないか。人の世話する前に自分を磨いておきな」
そう言うと、返事も聞かずに踵を返し部屋を出ていく。楼主の足音が聞こえなくなったのを確認したのか、結っている途中だというのに手元の顔がくるりとこちらに向いた。
「いつもの客ってあの"おひげ"の人でしょ?姐さんの好きな人!」
「ちょっと」
彼女のあけすけな物言いに慌てて止めようとすると、その手をつかまれ入れ違いに座らされる。
「私のことをやってる場合じゃないでしょ。めいいっぱい着飾って姐さんを寂しがらせたこと後悔させてやらなきゃ!」
確かに、最近あの人が来てくれない、とこぼしたこともあったけれど……。
「髪は高く結って首筋を見せる?歩揺はなににする?姐さんは淡い色より濃い色のほうが似合うよね」
と、私以上にはしゃぐ彼女を宥めながら、本当に久しぶりね、と思った。
ここ数か月見ることのなかったあの挑発的で憎めない笑みを頭に浮かべた時、ふと気づいた。いつもは予告もなくふらりと現れるのに、わざわざ使いを出して知らせてくるなんて。しばらく顔を出さなかったから、バツでも悪いのかしら。そんなことしなくてもただ来てくれるだけでも嬉しいのに。
勝手に上がってしまいそうになる口の端を抑えながら、まだはしゃいでいる彼女に、あなたのいい人が来るんじゃないでしょ、と窘める。呆れたふりをしながらも、頭の中では何を身に着けようかと考え始めていた。
日が暮れ、暗くなった街の中でもうちの店が一際明るくなる頃、彼は来た。
出迎えはしない。黙って部屋の中で彼が来るのを待ち、扉が開かれる音を肩で聞く。彼は部屋に入るといつもより着飾った私の姿を見るなり、こりゃまた一段と綺麗になったもんだ、と驚く。私が一番美しく見えるお気に入りの服に、前に彼がいいと褒めた化粧をして、そう言われたことで少し満足するが、これではまだ物足りない。ツン、とそっぽを向いてその顔だって見てあげない。
「ええ、誰かさんがちっとも来てくれないから、ほかの人に好いてもらおうと思いましてね」
本当はまたその顔が見れて嬉しくて仕方ないけど、しばらく来なかったことに怒ったふりをして意地悪をしてみる。
「あんたがそんなに寂しく思ってくれてるなんてね」
そう言って肩に触れようとしてくる手を、するりと躱す。伸ばした手が空を切ると、彼は少し困った振りをして見せた。そして笑いながら、そうすねるな、と懐から包みを出してくる。
「なんですか?」
まだ受け取らない。その差し出してきた小さくてかわいらしい包みに視線だけを送る。
「実はな、ちょいと用があって地元に顔を出してきたんだ。それでしばらくこれなかった」
私の前に回りこみ、顔を覗き込んでくる。
「そっちの菓子でな、こっちではなかなか見ないもんだ。あんた、甘いもの好きだろう?」
「お菓子だなんて。私のこと幾つだと思っていらっしゃるのかしら」
「いらないのか?」
「……私のことを忘れていなかったということで受け取ってさしあげましょう」
小さな包みを彼の手から受け取る。包みに顔を寄せると、その袋からは甘酸っぱい香りがこぼれた。贈り物なんていつもしないのに、こういう時はしっかりお土産を用意するのね。本当に憎めない人。
そのあとは、いつものように食事を運ばせる。箸をつけながら、許を離れた先で見た珍しいもの、聞いた話、会わない間にあった出来事を話す。いつもなら、私のほうが話していることが多くて、それを笑ったりからかったりするのに、それほどその旅は楽しかったのだろうか。
食事が終わり、酒を注ぐ段になっても彼の話は止まることがなかった。もう何度目か、杯を飲み干すのを見て、空になった杯に酒をつごうとした時、手に持った銚子が空になったことに気づく。
「今晩はお話もお酒もよく弾みますこと。もっとお飲みになられますか?」
そう問いかける。しかし返事は返ってこない。さっきまで笑い、楽しげに話していた彼の声が途切れた。その一瞬の空白に、胸にすっと冷たいものが走った。今日感じたほんの僅かな違和感がその隙間から溢れでて、思わず彼の顔を確かめる。
きゅっと引き締められた口許、そして真っ直ぐにこちらに向けられた視線。一変して変わった空気とその視線がこれから何があるのかを滲ませてくる。
嘘よ。
その予感を振り払うように指を握りしめても、胸の奥が細い糸で縛られたようにきりりと痛んだ。
「今日であんたに会うのは最後になる」
そんな言葉聞きたくないのに、耳を塞げない。
「しばらくここを離れていたのは、妻を迎えに行っていたんだ」
その残酷な音を遮ることもできずに、まるで怒っているような愛しい人の顔をただ眺めることしかできなかった。目の前にいるのに、手を伸ばせば触れることもできるのに、もうその距離は遠い。
沈黙が流れる。所詮は妓女と客の仲。そういう日が来ることは分かっていたのに。そんなの嫌と泣くことも、薄情な人と怒ることも選べないうちに顔は勝手に笑みを浮かべてしまう。
「奥様を愛していらっしゃるのね」
その問いに答えは返ってこない。問いかけた私に向けられた眼が、ほんの少しだけ柔らかくなる。胸の底が抜けるような感覚がした。その眼差しに滲む感情を認めたくなくて、思わず目をそらす。そんな眼で見ないで。私はあなたが思うほど、物わかりのいい女じゃない。でも、それでも、それを望むなら。
彼から見えないように指を握りこんだ。
「いいえ、知っていたの。あなた、私に可愛いと言っても、愛しているとは一度も言ってくださらなかったもの」
反らした眼をもう一度、彼のほうへ向ける。
これは私の精一杯の妓女として――あなたに愛された女としての矜持。貴方への罰。
そして紛れもない、愛だ。
だから、最後にもう一度だけ。
「せめて今夜、いつものように"愛して"くださる?」
彼の手がゆっくりと伸び、私を押し倒す。いつものように唇を重ね、帯を解き肌に指を滑らせる。今まで何度も重ね合った身体の、そのあまりにも馴染んでしまった感覚が、余計に胸を引き裂く様に痛んだ。
愛おしいのか悲しいのか、頭の片隅でいくつもの感情が混ざりあう。どう足掻いても、もう二度とこの時間は来ないのだと思うと指先が震えた。それを悟られぬよう、彼の背中に腕を回しその首筋に顔をうずめる。
朝には乾いてしまうだろう肩にこぼした涙も、いつもならつけない背中への傷も、何も見ないふりをしてくれている。忘れないでともお幸せにとも言わない。きっとその僅かな痛みだけが、私が彼に与えられるものなのだろう。 今夜だけ、この夜だけはその優しさに溺れさせてほしい。
だからあなたも、今夜だけは。
朝起きると、そこに彼の姿はもうなかった。
布団に彼の熱は既になく、僅かな匂い、それだけがあの人が確かにいたことを物語っていた。
いっそ全てが夢であったら良かったのに。
机の上に目を向ければ、夢ではなかった証拠に昨日渡された菓子の包みが開けることもなく置かれている。ゆっくりと体を起こし、衣を肩にかけると机に近づく。包みの紐を解くと、中には白い塊が入っていた。
ひとつ取り出し、口へと運ぶ。噛むとカリッと小気味いい音を立てた。
口の中にまろやかな酸味とほのかな甘みが広がる。残りも口に放り込み、咀嚼し飲み込んだ。
ふっ、と息を吐く。
「……全然、甘くないじゃない」